日本歴史地名大系 「泉川村」の解説 泉川村いずみがわむら 栃木県:栃木市泉川村[現在地名]栃木市泉川町新井(あらい)村の南に位置し、西は大皆川(おおみながわ)村。永野(ながの)川左岸、旧永野川が形成した吹上(ふきあげ)扇状地の扇端にあり、扇端特有の湧泉が多かった。享徳年間(一四五二―五五)には檜原(ひのきばら)村といったが、檜の幹から泉が湧出したので泉川となったと伝えている。最大の湧泉は新井村にかけての精進(しようじん)沼であった(現在はない)。中世は中泉(なかいずみ)庄のうちで、延元三年(一三三八)九月五日の北畠親房御教書写(光明寺旧記)に「中泉庄泉川郷」とあり、南朝方にくみした小山政景に勲功の賞として宛行っている。 泉川村いずみがわむら 千葉県:旭市泉川村[現在地名]旭市泉川大塚原(おおつかはら)村の北に位置し、村内を東西に多古銚子(たこちようし)道が通る。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本文書)に泉川とみえ、歓行坊の三本を含め新左衛門尉など五人で八本の柑子の木が植えられていた。寛文一〇年(一六七〇)幕府領となり、椿(つばき)海の干拓後貞享二年(一六八五)旗本高力領になったと思われる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高四六〇石余。村高・支配領主とも幕末まで変わらない。村の東端を流れる椿新田の排水河川高橋(たかはし)川は水位が低く、当地の水が流れ込むため用水源とならず、稲荷後(とうかうしろ)の用水溜のみであるため慢性的な水不足に悩まされた。家数は寛政五年(一七九三)七一、文久二年(一八六二)六三、明治四年(一八七一)五四と減少している(石橋家文書)。 泉川村いずみがわむら 茨城県:鹿島郡鹿島町泉川村[現在地名]鹿島町泉川鹿島灘沿岸にあり、北は国末(くにすえ)村、西は長栖(ながす)村。弘安大田文に「同宿内泉河三丁五段」と記され、鹿島郡南条下宿内の一集落であった。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「仁百卅壱石九斗 いつミ川」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳に村高二五一石余とあり、旗本三浦氏が支配した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by