新井村(読み)あらいむら

日本歴史地名大系 「新井村」の解説

新井村
あらいむら

[現在地名]新井市新井・かみ町・なか町・しも町・朝日あさひ町一―二丁目・さかえ町・東雲しののめ町・白山はくさん町一―四丁目・にしき町一―二丁目

南北に北国街道が通る。村域内中央に、どいした屋敷内やしきうちのほか広さ三〇〇坪以上に及ぶ御殿屋敷ごてんやしきの小字名が残る。近辺には舞台ぶたい竹の花たけのはなの中世の館跡にちなむ地名もある。また二千四〇〇坪以上に及ぶ字阿弥陀堂あみだどうや字しょうじばの地名が残る。村名の表記は「荒」「新」の両様があったが、天保四年(一八三三)の乍恐以書附奉願上候(金子以策氏蔵)に「先規之通之村銘新井ニ御書改被成下置度奉願上候、左候得ハ文字御水帳と符合仕、已来間違之儀無御座、百姓一統安堵仕誠ニ以、村方永続之基と難有仕合ニ奉存候」とあり、「新井」に統一してほしい旨願出ている。同九年これが認められ、以後新井と記される。文化七年(一八一〇)の村明細帳(同氏蔵)に「村立応永十年の古書付金子平六郎方ニ所持罷在候」とあり、

<資料は省略されています>

と記され、村立を応永一〇年(一四〇三)と伝えている。同一八年八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)によれば「津有郷内」に「二町冨益別給税所給、荒井新保」があるが、津有つあり郷はせき川右岸とされるので、不詳。天正一六年(一五八八)と思われる四月七日の黒金景信書状(上杉家文書)によれば、泉沢河内守久秀が「荒井之地江御着」になっている。


新井村
あらいむら

[現在地名]榛東村新井

広馬場ひろばば村の北、榛名はるな山の東南麓の緩傾斜地に位置し、東は野良犬のらいぬ(現前橋市)、西は大野おおの秣場入会地、北は山子田やまこだ村と蛇喰じやくい川で、南の広馬場村とは鶴沢つるさわ川で境する。正徳年間(一七一一―一六)と思われる村根元記帳(浅見文書)に、永正一〇年(一五一三)に前年に再建した桃井もものい八幡宮の御手洗池を尊んで村名を「新井あらたい」と改めたとあり、大永三年(一五二三)に、箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)城主長野氏は阿佐見氏(近世は宮大工)に対し当村の開発棟梁役を命じ諸浪人を集めて開発が進められたとみえる。


新井村
あらいむら

[現在地名]日野市新井など

下田しもだ村の東にある村。暦応二年(一三三九)のものと推定される山内経之書状(高幡不動胎内文書)六通に「あらいとの」とみえる。新井殿とは本郷(土淵本郷か)近辺に在住していた経之と親交があった新井の領主で、高幡高麗一族とみられる。永禄一〇年(一五六七)一〇月一八日の高幡不動堂座敷次第覚写(史籍雑纂)に、高幡たかはた不動(金剛寺)の正月仏事に参集した高麗山城守は「あらいの村」在住とある。しかし当時すでに小田原北条氏の進出によって高幡高麗一族は没落していたので、往時(天文頃)を回想して記されたものとされる。


新井村
にいむら

[現在地名]朝来町新井

口八代くちやしろ村の北東、円山まるやま川の左岸に位置し、対岸東方は立野たての村、同南東は山口やまぐち村、北は立脇たちわき村。当地で神子畑みこばた川が円山川に注ぎ、佐嚢さのう(神子畑川流域)の入口にあたる。山口村から円山川を船渡しで渡った生野いくの街道(但馬街道)は、当地から円山川の左岸沿いを北上して現和田山わだやま町域に抜けていた。また当地で同街道から分れ、神子畑川支流の八代川に沿って北上し、八代峠越で養父やぶ郡の建屋たきのや(現養父町)に至る道も通じていた。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高二八一石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高二九八石余。菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)に「人家四、五十軒、皆農家なり」と記される。


新井村
あらいむら

[現在地名]栃木市新井町

栃木町の北西方に位置し、永野ながの川支流の赤津あかづ川が南流する。北東は野中のなか村、南は泉川いずみがわ村と接する。天神てんじん沼・木八きはち沼・しも沼・精進しようじん沼などがあった。元禄郷帳天保郷帳では一村で高付されているが、史料上東新井村西新井村と二村扱いで記されることがあり、寛永二〇年(一六四三)の分村という。延元三年(一三三八)九月五日の北畠親房御教書写(光明寺旧記)によれば、皆河みながわ庄内「息居郷」が南朝方の小山政景に宛行われているが、これは荒居郷の誤写とみられ、当地に比定される。


新井村
あらいむら

[現在地名]伊東市新井・新井一―二丁目

伊東湾で最も早く漁村として開けた村。北は同湾に面し、西は和田わだ村。永享六年(一四三四)一二月二九日に万寿院に打渡された伊東庄内九ヵ村のなかに「新居」がある(「中原師貞打渡状」円覚寺文書)

貞享三年(一六八六)の指出帳(新井区有文書)によると高七八石余。領主の変遷は寛政四年(一七九二)までおか村に同じで、同年以後幕末まで幕府領(韮山町史)。早くから領主の御肴場であったらしく、前掲指出帳によれば鰯網役米四石四斗五升定納、宇佐美うさみ村黒根から稲取いなとり(現東伊豆町)までは当村の漁場。


新井村
あらいむら

[現在地名]牟礼村大字古町ふるまち

現牟礼村の中北部。東は黒川くろかわ村、南は中宿なかじゆく村・裏新田うらしんでん村、西は霊仙寺りようせんじ山麓の入会原野、北は高山新田たかやましんでん村・石橋新田いしばししんでん(以上現信濃町大井)に接する。西北及び南西は霊仙寺山麓の山地が緩傾斜をもって低下し、北東からは七〇〇メートル台の鍋山なべやま丘陵が延びて迫り、東南に五〇〇メートル台の平地が開ける。これら山谷を縫って滝沢たきざわ川などの小河川が流下し、これに沿って、村の東部村境に沿って北国脇往還の脇道が南下し、西部を南北に坂中さかなか道が貫通している。


新井村
あらいむら

[現在地名]光町新井

香取郡に属し、同郡宝米ほうめ村・市野原いちのはら村の北西に位置する。西は南流する栗山くりやま川を境に同郡牛尾うしのお(現多古町)。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられる。天正期(一五七三―九二)と推定される年月日未詳の領知目録写(神保文書)に「壱貫 あらゐ」とみえ、当地は坂田さかた(現横芝町)城主井田氏の支配下に属し、その家臣(椎名氏か)が当地内に一貫文の知行地を有していた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に荒井とみえ、高二五〇石で、荒井組に属し、旗本神田領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四九六石余、旗本神田領・幕府領の相給。


新井村
にいむら

[現在地名]国府町新井

神垣こうがけ村の南東に位置する。支村に舟山ふなやまがある(因幡志)。拝領高は二一六石余、本免は六ツ四分。土肥氏・野間氏・安田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二五(うち舟山四、このうち一軒は吉野の出村)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高は二三六石余(うち畑高二一石余)で、永荒を引き年開一七石余などを加えた都合高は二五四石余。


新井村
あらいむら

[現在地名]太田市新井町・庄屋町しようやまち浜町はまちよう

西矢島にしやじま村の北に位置し、北は上浜田かみはまだ村、西は下浜田村など。東境を八瀬やせ川の分水が、西境を八瀬川が南流する。一五世紀半ばの年未詳岩松持国知行分注文(正木文書)には「荒井郷」とみえ、合点が打たれ「ゆら」と注記される。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)で冨岡氏に与えられた地に「新田領之内」として荒井郷がみえる。慶安三年(一六五〇)の検地帳(竹内文書)によれば、田二〇町七反余・畑屋敷一六町一反余、ほかに蔵屋敷一畝一八歩であった。


新井村
あらいむら

[現在地名]本庄市新井など

からす川・利根川の沖積低地の自然堤防上に位置し、東は都島みやこじま村。北は利根川が限り、三国みくに街道が通る。南方の小島おじま村地内に飛地がある。寛永(一六二四―四四)の初めまでは上野国那波なは郡に属していたが、それまで村の南を流れていた烏川が北に流路を変えたことにより武蔵国に属したとされる(上野国志)。正保二年(一六四五)の本庄町外石高等領知図(中原家蔵)では高六九六石余、家数四五。


新井村
にいむら

[現在地名]岩美町新井

河崎かわさき村の北東に位置する。北は町浦富まちうらどめ村。支村に庄谷しようだにがある(因幡志)。東部をほぼ南北に但馬往来が通る。拝領高は四一一石余、本免は五ツ一分。藪役銀八匁一分を課されており(藩史)、東館家家臣原田氏をはじめ、井村・石黒・大久保・小島・野田・小泉・塩川の各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二二。


新井村
あらいむら

[現在地名]市川市新井一―三丁目・南行徳みなみぎようとく一―四丁目・相之川あいのかわ二―四丁目・広尾ひろお一―二丁目など

欠真間かけまま村の南にあり、「葛飾誌略」は「欠真間村の出村也」と記し、欠真間村の農民によって開かれたとする。なお「本土寺過去帳」に散見する「アライ」を当地とする説もある。江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一〇三石余。


新井村
あらいむら

[現在地名]大宮市東新井ひがしあらい

笹丸ささまる村の西に位置し、当村の東端の一部は笹丸村から食込む沖積低地。大部分は大和田片柳おおわだかたやなぎ支台上にあり、北・西・南は御倉みくら村・白岡しらおか村に囲まれる。北方に飛地がある。南部なんぶ領に属する(風土記稿)。江戸時代を通じて旗本青木領であったと考えられる(田園簿・国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)。田園簿では田一五石余・畑三九石余。江戸時代後期には日光御成道大門だいもん宿(現浦和市)の助郷を勤め、文化一二年(一八一五)の御用立人馬改では家数二二・人数一八、馬四(「大門宿助郷改帳」会田家文書)。化政期の家数二〇余(風土記稿)。鎮守は天神社。新義真言宗西勝さいしよう院があった(同書)

御倉村・白岡村を隔てて西方に新井新田があり、開発前は海老えび沼と称される湿地帯であった。


新井村
あらいむら

[現在地名]藤岡町こう

渡良瀬川左岸の平坦な台地を占め、東部は沼沢地で谷津とよばれ、西部も低湿地。東は只木ただき村、南は川沼かわぬま新田、西は大谷田おおやだ村・川沼新田、北は大田和おおだわ村。中世末、福地又左衛門によって開かれたと伝える。慶安郷帳に村名がみえ、田三三石余・畑九三石余、下総古河藩領。改革組合村では幕府領と古河藩領の相給、旧高旧領取調帳では古河藩領のみ。


新井村
あらいむら

[現在地名]八千代町新井

鬼怒きぬ川旧河道東に位置。古来より鬼怒川中流の乱流地帯に属し、肥沃な水田地帯を形成。東は野爪のづめ村。旧河道は砂の採取によって人工沼と化し、格好の釣場となっている。小字は二三あり、東寸加ひがしすつか通神つうのしん西願せいがん・西寸加・柳町やなぎまち星の宮ほしのみやのような珍しいものがみられる。

村域内の新井家墓地には文保二年(一三一八)四月銘の板碑が確認されている。「寛文朱印留」によれば土井利益(のち古河藩主)領。


新井村
あらいむら

[現在地名]羽島市正木町新井まさきちようあらい

大浦おおうら村・加納かのう村の南、木曾川西岸沿いに位置する大浦輪中内の村。美濃路が通り、対岸のおこし(現愛知県尾西市)とは渡船で結ばれていた。起の徳行とくぎよう寺蔵阿弥陀如来絵像は天文五年(一五三六)に下付されたもので、裏書に「尾州中島郡新井郷東興」とあり、天正一四年(一五八六)の洪水によって切断されるまでは、当地と興(起)は一郷であったことを推定させる。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)には、まかり(曲利)・あらい・おこし・三つ柳の順で記載されている。慶長郷帳では高四三五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本別所重家領と平岡頼資(徳野藩)領。


新井村
にのいむら

[現在地名]びわ町新居にのい

野寺のでら村の北東、あね川右岸にある。「和名抄」記載の浅井郡新居にいい郷の遺称地とされ、中世は新井郷に属した。天正一三年(一五八五)閏八月二一日、羽柴秀吉が山内一豊に与えた二万石のうちの一〇〇石は当地にあった(山内文書)。浅井郡検地帳(東浅井郡志)による天正検地高五四一石余で、慶長七年(一六〇二)検地では五一六石余となっている。寛永石高帳でも五一六石余で大名堀利長領。ほかに二斗六升とあるが、正保郷帳によればこれは膳所藩が課した簗高。貞享二年(一六八五)以降は大和郡山藩領。慶長六年船数帳に船一とある。


新井村
あらいむら

[現在地名]大宮市西新井にしあらい

清河寺せいがんじ村の北東、大宮台地指扇さしおうぎ支台北東部にあり、北と東はかも川に流入する悪水の低地となっている。南東は内野本郷うちのほんごう村。荒井村とも記した(「武蔵志」など)差扇さしおうぎ領に属した(風土記稿)。田園簿では田三三石余・畑四一石余、ほかに野銭永一貫二三〇文がある。元禄年中改定図(風土記稿)に「古ハ上内野」と注記される。江戸時代の領主の変遷は指扇村に同じ。元禄七年(一六九四)に検地が実施された(「御検地之節日記」東京都河井家文書)。延享元年(一七四四)には下谷原しもやはらの流作場検地が行われ、指扇村などとともに差扇領一三ヵ村組合に所属(「流作場検地帳」片岡家文書)


新井村
あらいむら

[現在地名]富津市新井

富津村の東に位置し、江戸湾に面する。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に北条氏の半手所領として荒井とみえ、北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高二〇六石。元禄郷帳では二〇八石余。幕末もほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四四で、旗本小笠原領。


新井村
あらいむら

[現在地名]大平町あらい

野田のだ村の西に位置し、南西は豊後ぶんご新田村、南は西水代にしみずしろ村と接する。弘安六年(一二八三)四月五日の大見行定置文(中条家文書)中泉なかいずみ西荒居にしあらいとみえ、当地などの地頭職を次男家政に譲与している。文禄四年(一五九五)の榎本領村高書上(大出善作文書)に新井とあり、高三四五石余。慶安郷帳に村名がみえ、田二五九石余・畑二八一石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録に村名が記載される。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳(長野県上田市立博物館蔵)によれば、高五四四石余でほかに新田一石余。


新井村
にいむら

[現在地名]伊根町字新井

大原おおはら村の北に位置し、東は海に面する。近世初期から開けた漁村で鰤刺網が行われた。大原村地先に新井村から網を張ることについての文禄五年(一五九六)および近世極初期のものと思われる紛争処理の文書(下野家文書)が残る(→大原村。文禄五年のものに「新井村 刀年」とある。古くから刺網に田畑を加えて一一の株を定めていた。


新井村
にいむら

[現在地名]貝塚市新井

半田はんだ村の西にある南郡の村。「泉州志」は「続日本紀」天平神護元年(七六五)一〇月二七日条にみえる、称徳天皇が紀伊行幸の帰途宿所とした日根郡新治にいはり行宮の所在地を当村とする。日根郡に新治の地名は存在せず、当村が日根郡に近接するため、新井は新治のなまったものとし、また前後の行程からみても新治の行宮は新井村であると推定する。


新井村
あらいむら

[現在地名]中野区新井一―五丁目・中野四―五丁目・松が丘まつがおか一―二丁目・野方のがた一―二丁目など

中野村の北に位置する。豊島郡石神井しやくじい(現練馬区)から江戸四谷に通ずる道の東の上高田かみたかだ村との境に、地蔵碑と秩父西国巡礼の供養塔がある(風土記稿)。足利持氏の家臣矢田義泉の一族が応永一三年(一四〇六)に荒地の開墾を行い、同二〇年梅原郷主の左衛門なる者が村の共同井戸を新たに掘ったことが地名の由来という(「武州多磨郡新井埜草別調」窪寺家文書)。田園簿によると田方三〇石余・畑方二〇石余、旗本細田領、ほかに永二貫九四一文の野銭を細田氏に納める。元禄郷帳では高三三石余。


新井村
あらいむら

[現在地名]松井田町新井

上増田かみますだ村の東南にあり、九十九つくも川の形成した河岸段丘と流入する小河川の形成した谷地を中心に集落が営まれる。東山道が通ったと考えられる。碓氷郡に属し、慶長六年(一六〇一)の検地帳(中島文書)がある。寛文郷帳では田方二〇四石余・畑方二二六石余、安中藩領。元禄郷帳によるとこの高のほかに新堀にいぼり金剛こんごう寺領一一石余があった。江戸後期の御改革組合村高帳では家数一〇六、安中藩領。中山道松井田宿・坂本さかもと宿の助郷村で、人足役家数二一・馬数一五と定められていた(寛文五年「助馬村々書上」坪井文書)


新井村
あらいむら

[現在地名]川里村新井

さかい村の北西にあり、見沼代用水(星川)右岸の自然堤防上に位置する。北から西は広くせき新田村に接し、同村内に飛地が散在する。弘安一〇年(一二八七)一月二〇日、陸奥国好島よしま(現福島県いわき市)の伊賀光隆が子の光清に譲与した所領のなかにみえる「荒居」(永仁元年一二月一七日「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)は当地のことと考えられる。騎西きさい領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高一三八石余・畑高九八石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高一五三石余(田方一二町三反余・畑方三町八反余)


新井村
あらいむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 新井

横内よこうち村の西方、北はかみ川、南は宮川に挟まれた平坦地にある。湧水も多く、水利に恵まれている。

慶長一八年(一六一三)の信州諏訪郡高辻に、「高三百弐拾三石壱斗壱升弐合 新井村」とあるのが村名の初見である。この高は元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳(内閣文庫蔵)でも変わらないが、同書には同村の中央部より北方上川辺りへかけての地籍に上赤田新田かみあかだしんでん(高四〇・八五四石)と下赤田新田村(高二四・九三石)が記されている。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)によれば、新井村の家数三七軒、上赤田新田は二軒、下赤田新田は四軒である。


新井村
あらいむら

[現在地名]松川町元大島もとおおじま 新井

現松川町竜西地区。北は上片桐かみかたぎり、南は古町ふるまち、西は名子なごに接し、河岸段丘第一段から第三段辺りに集落がある。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に「上新井」とあり、正保三年(一六四六)の検地帳には「大島之内新井村」とみえる。高燥な台地上に位置するため、松川その他の河川から新たに井水を引き、農耕を行ったことから起きた村名といえる。


新井村
あらいむら

[現在地名]栗橋町新井

島川しまがわ村の東に位置し、村の南を島川が流れる。川沿いには堤防(島中囲堤)がある。田園簿に村名がみえ、田高五〇石余・畑高二一九石余で、幕府領。元禄郷帳では高三〇三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領で、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも同じ。「風土記稿」によると家数三七。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)八甫はつぽう(現鷲宮町)との間の広大な河川敷を両村で草刈場としていたが、宝永七年(一七一〇)当村はその境をめぐって訴訟に及んだものの、その訴えは退けられた(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)


新井村
あらいむら

[現在地名]長野原町与喜屋よきや

かん(一四七三・五メートル)の西北麓、吾妻川南岸と合流するくま川東岸に挟まれる小村で、河岸段丘面が集落・耕地となる。北は吾妻川を挟んで坪井つぼい村。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二二石余。寛文郷帳では田方二斗余・畑方二二石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控によると高一〇二石余で西久保治郎左衛門の給分。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では二四石余。元禄郷帳では幕府領。


新井村
あらいむら

[現在地名]垂井町新井

大滝おおたき村の南に位置し、大滝川は当村を経て府中ふちゆう村の西を南流する。「和名抄」記載の不破郡新居にいい郷の遺称地とする説がある。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳には「荒井村之内」「新井村之内」などとみえ、高一六五石余・高三七七石余とあるが、前者は大滝村分と考えられる。正保郷帳では荒井村とあり、田高三〇九石余・畑高六八石余のうち高三一石余は尾張藩領、ほかは旗本別所重長領、また山年貢二石があった。


新井村
あらいむら

[現在地名]前橋市新井町

東は飯土井いいどい村、北と西は二之宮にのみや村、南は神沢かんざわ川を隔てて佐位さい波志江はしえ(現伊勢崎市)。寛文郷帳に田方二三〇石六斗余・畑方一八四石二斗余とあり、「但松林雑木林在」と注記される。近世の支配は「郡村誌」によれば、明和五年(一七六八)前橋藩領から幕府領となり、文化八年(一八一一)以降幕府領と前橋藩領に分割されたという。


新井村
あらいむら

[現在地名]深谷市新井

利根川右岸の沖積低地にあり、東は蓮沼はすぬま村、西は榛沢はんざわ上敷免じようしきめん村、北は沼尻ぬまじり村と棒沢郡成塚なりづか村。深谷領に所属(風土記稿)。村の北辺を備前渠びぜんきよ用水が東流する。「和名抄」にみえる榛沢郡新居にいい郷の遺称地とする説もある。


新井村
あらいむら

[現在地名]下條村新井

現下條村の南部、下条山脈の山麓に位置する。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳では、新井と芋窪いもくぼが併記されているが、江戸時代になると芋窪は当村に包含された。慶長六年(一六〇一)より飯田藩領に属し、小笠原氏・脇坂氏の所領となった。寛文一二年(一六七二)より一時幕府領となったが、天和元年(一六八一)以降は高須藩領となった。


新井村
あらいむら

[現在地名]谷田部町新井

山中やまなか村の南、蓮沼はすぬま川東岸に位置。江戸時代には旗本朝比奈氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には朝比奈平五郎の知行地で村高一〇二・六〇七八石。


新井村
あらいむら

[現在地名]松本市里山辺 新井

山辺谷の入口にある村ではら村に接している。

寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に初めて二一一石五斗一升七合と高付けされる。「信府統記」に「御朱印高百三拾六石三斗二升四合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は二二二石六斗七升一合である。


新井村
あらいむら

[現在地名]市原市新井

古敷谷こしきや村の北東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ高一三四石で、幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五〇で、旗本酒井領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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