日本歴史地名大系 「波多村」の解説 波多村はたむら 鳥取県:八頭郡智頭町波多村[現在地名]智頭町波多口波多(くちはた)村の北西、波多川の中・上流域に位置し、北東方には籠(かご)山がそびえる。西は美作国東北条(とうほくじよう)郡阿波(あば)村(現岡山県阿波村)。当村から南の口宇波(くちうなみ)村や北の安蔵(あぞう)谷の山口(やまぐち)村(現用瀬町)に越える山道がある。集落西方、美作国境に広がる高地を波多の台(黒岩高原)という。奥波多(おくはた)村ともいい(因幡志)、奥畑などとも記した。地名の由来は、天正年間(一五七三―九二)に討死した南方(みなみがた)村水無(みなし)城主波多野丹波守の一族が当地を含む富沢(とみざわ)谷に落延びたことにちなむという(初稿八頭郡誌)。なお口波多村はもと当村の枝村であったが、元禄郷帳・元禄国絵図作成時までに分村した(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。 波多村はたむら 熊本県:宇土郡三角町波多村[現在地名]三角町波多東は中(なか)村・前越(まえごし)村、西は三角浦(みすみうら)村、北は大田尾(おおたお)村、南は八代海に面し、東より西へ富岡(とみおか)往還が通じる。村の中央に塩屋浦(しおやうら)、東に郷開(ごうびらき)、西に有働(うどう)、南西に陣内(じんのうち)、北西に重盛平(しげもりひら)などの字地がみえる(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「波田」とみえ、郡浦(こおのうら)庄に属した。近世は郡浦手永に属し、「国誌」に「塩屋村桐崎村吉永村宮崎村浦村等ノ小村アリ」とあるが、「桐崎・吉永」は際崎(きわざき)・古氷(ふるこおり)(ふるくり)が正しいという。正保郷帳では田方三七〇石二斗余で「日損所 はへ山有」とあり、畠方は一九四石九斗余で「芝山有」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報