波多野検校(読み)はたのけんぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「波多野検校」の意味・わかりやすい解説

波多野検校 (はたのけんぎょう)
生没年:?-1651(慶安4)

平曲家。波多野流流祖。名は孝(考)一。江戸時代初期平曲界の主流であった一方流(いちかたりゆう)師道派の山中久一の門下で,師の詞章改訂を受け継ぎ波多野流を立て,前田検校前田流と対立した。一説には八坂流も学んだと伝えられ,詞章改訂には八坂流もとり入れた可能性がある。京都の人であったが江戸に出て徳川家光以下,将軍家厚遇を得た。これが江戸平曲の最初であり,江戸宗匠とも呼ばれたが,のち流儀は京都を中心に伝承された。1646年(正保3)に盲人の自治組織,当道(とうどう)の最高位である総検校になり,51年没するまでその地位にあった。門下に河瀬意一検校などの名人がいる。
波多野流
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朝日日本歴史人物事典 「波多野検校」の解説

波多野検校

没年慶安4?(1651)
生年:生年不詳
江戸前期の平家琵琶(平曲)奏者。名は孝一。考一とも。目が不自由であった。一方流師堂派の山中久一の門人で,同門の高山誕一の門人で前田流の祖前田九一に対抗して波多野流を立てた。その語りには八坂流をも摂取している。正保・慶安(1644~52)のころ,当道座を統括する総検校についた。

(山下宏明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「波多野検校」の解説

波多野検校 はたのけんぎょう

?-1651 江戸時代前期の平曲家(平家琵琶(びわ)家)。
京都の人。波多野流をたて,前田検校の前田流ときそった。のち江戸にいき,徳川家光以後将軍家から厚遇され初代江戸宗匠となった。正保(しょうほ)3年(1646)職検校にのぼった。慶安4年死去。名は孝(考)一。

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