平曲の流派名。八坂方ともいい,流祖は城玄(じようげん)。この派の琵琶法師はみな〈城〉を名の頭につける。13世紀半ばすぎ,筑紫出身の如一が平曲の改変を試みたとき,頭に〈城〉の字のつく名を〈一〉(〈都〉)の字に改め,新しく一方(いちかた)流を立てた。このとき城玄は従来の平曲を語り伝え,名の〈城〉の字も守った。この一派を城玄の住んだ京都の八坂にちなんで〈八坂流〉,また芸名にちなんで〈城方(じようかた)〉とも呼んだ。一方流が〈灌頂巻(かんぢようのまき)〉を特立させて平曲を権威づけたのに対し,八坂流はごく親しみやすい楽しめる雰囲気をもっていたようである。15世紀には城存(じようそん),城竹などの名人も出たが,つねに一方流ほどにはふるわなかった。室町時代末期に平曲が衰退に向かったとき,八坂流から多くの浄瑠璃への転向者が出た。文献によると,江戸時代中期までは伝承者がいたようである。現在,一方流の一派である前田流が伝える曲のなかに《八坂流訪月》があり,他の曲には見られない特殊な節付けがなされているが,これがどこまで八坂流の特徴を残しているかは不明である。
→平曲
執筆者:薦田 治子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そこに行長と生仏という人材があらわれて,《平家物語》という一大唱導芸術がつくり出されたということは考えられる。 13世紀も後半になると,京都八坂の城玄(じようげん),筑紫出身の如一(じよいち)という名人が出,それぞれ八坂流(やさかりゆう),一方流(いちかたりゆう)を立てた。以後,八坂流はあまりふるわず,平曲は一方流を中心に伝承されていく。…
…後者の非当道系諸本は,さらに,記事の多い広本系と少ない略本系とに分かれる。当道座では,南北朝期に琵琶法師の巨匠覚一(かくいち)が登場するに及んで一方(いちかた)流と八坂(やさか)流(城方(じようかた)流とも)の分派が生じ,それぞれ異なる本文を持つに至った。一方流の本文は,巻十二の後に,高倉天皇の中宮建礼門院(平清盛の娘)の生涯を六道の体験に擬して語る,物語の総集編ともいうべき〈六道の沙汰〉を中心にすえ,この女院が安徳天皇をはじめ,滅んだ平家一門の亡魂を弔うという〈灌頂(かんぢよう)巻〉を別巻として立てる。…
※「八坂流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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