日本の歴史的な社会組織。本来は学芸・技芸において,専門とするものについて,みずからいう場合の語であったが,中世以降,狭義には盲人組織をいった。
盲人の技芸者は,盲僧として宗教組織に編入されていたが,その中から《平家物語》などの合戦譚を琵琶伴奏で語る僧が出現した。その芸能が〈平曲〉としてとくに武家社会に享受され,室町幕府の庇護を受けるに及んで,平曲を語る芸能僧たちは宗教組織から離脱して自治的な職能集団を結成,宗教組織にとどまっていた盲僧と区別して,みずからを当道と呼称した。覚一(かくいち)検校(1300?-71)の時代に至って,組織の体系化が行われ,当道に属する盲人を,検校,勾当(こうとう),座頭などの官位に分かち,全体を職(しよく)または職検校が統括し,その居所である京都の職屋敷がその統括事務たる座務を行う場所となった。さらに,仁明天皇の皇子で盲人の人康(さねやす)親王を祖と仰ぐなどの権威づけを行い,治外法権的性格を持つに至った。それとともに内部に派別も生じ,その名による一方(いちかた)と城方(じようかた)の別以外に,妙観,妙聞(門),師堂(志道),源照(玄正),戸島,大山などのいわゆる当道6派の別も生じた。室町末期には,その座務が奈良と大津坂本に分かれて行われることもあり,また,天文(1532-55)ころには,〈本所〉ないし〈管領〉と称する後援者の支配権をめぐって,本座と新座の抗争も起こったが,両者の和解後は久我(こが)家が名目的本所となった。
江戸時代には全国的に仕置屋敷が設けられ,年寄,座元,組頭などの支配組織も生じた。江戸の仕置屋敷は惣録(そうろく)屋敷といわれ,その統括者を惣録検校ないし惣検校と称し,一時は職屋敷の支配から独立することもあった。江戸幕府も保護政策をとり,冠婚葬祭に際して徴収した富銀(とみぎん)を当道盲人に与えた。さらに盲人の官位の昇進に莫大な官金を徴し,これをそれぞれ盲人を扶持していた大名家などが負担して収めたので,職屋敷およびその分配にあずかった取立検校らは,莫大な収入を得て,高利貸を営む者まで生じた。江戸時代には,平曲のみならず,地歌,箏曲などの音楽芸能も専業とするほか,三療(鍼,灸,按摩)に従事する者もあった。明治維新後,1871年(明治4)に当道組織は解散させられたが,とくに地歌演奏団体において名のみ遺存させて,それらの団体から私的に検校,勾当などの称号を発行することも行われている。
→盲人
執筆者:平野 健次
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中世では芸能者がみずからの芸能を「当道」と称したが,平曲の隆盛とともに盲人琵琶法師の座をさすようになった。久我(こが)家が本所となり新座を独立しようとして失敗した1534年(天文3)の座中天文事件などをへて,自律的支配秩序が形成される。近世には,徳川家康が式目を承認し,寛永式目制定により惣検校(そうけんぎょう)を頂点とする職十老の自治的支配権が認められた。1692年(元禄5)の新式目では,惣検校の幕府任命制,京都の職検校(しょくけんぎょう)に対する江戸惣検校の優位などが定められた。近世の当道座は,検校・別当・勾当(こうとう)・座頭の官位制度,師弟制度,諸国支配制度によって維持され,座員は三弦・箏などの音曲,鍼灸・按摩などの治療施術,公的に保護された官金の利付き貸付(金融業)などに携わった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
自らが学ぶ学問・技芸の道の称。中世・近世では、とくに平曲を語る盲人芸能者(琵琶(びわ)法師)たちが自らの芸道・集団を当道と称した。その仲間が当道座であり、検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)などの官位が設けられた。
[編集部]
…如一は《平家物語》の詞章の改訂に着手したが,その弟子で〈天下無雙(むそう)の上手〉といわれた明石覚一(あかしかくいち)(?‐1371)はさらに改訂・増補を重ね,〈覚一本〉とよばれる一本を完成し,一方流平曲の大成者として以後の平曲隆盛の基盤をつくった。このころ,平曲を語る盲人たちは,〈当道(とうどう)〉という座を結成し,お互いの縄張りを確保するようになるが,覚一は文献上最初の検校(当道座の最高位)であり,当道の祖といわれる。覚一以後,平曲は最盛期を迎え,平曲家の増大にともなって一方流が妙観,師道,源照,戸嶋の4派,八坂流が妙聞,大山の2派に分かれた。…
…《日葡辞書》では〈道の者〉を〈演劇(能)とか笑劇(狂言)とかを演ずる人〉としているが,それだけでなく,この言葉は室町時代以降,より広い芸能民を含み,ときには遊女そのものをさす語としても用いられた。また,南北朝末期,山臥について〈当道の衆中〉といわれたように,〈当道〉の語も〈道々の者〉を通じて使われたが,中世末には三昧聖が〈当道之職〉といわれ,近世には〈当道〉はもっぱら盲目の人々の集団をさすようになる。 もちろん,一方には〈武士道〉あるいは〈商売道〉のような用法に転化した場合もあったが,〈道々の者〉のこうした語義の大きな変化の背後には,一部の芸能民,呪術者を含む被差別民の身分がしだいに固定化されていく社会の動向があったことを考えておく必要がある。…
…これらはヨーロッパ中世都市の他の乞食のギルドと同様に,最下層の賤民身分に生きる盲人たちがみずからの力で生活を守るために組織したものであり,物乞いの縄張を協定し,自治制度・年金制度などを定めた。 日本では14世紀に入ると平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り,筑紫,明石,京の八坂,坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道(とうどう)〉と呼ばれる座が形成され,覚一の活躍した南北朝時代にその統一的な組織が確立した。この平曲の座は天夜尊(あまよのみこと)(仁明あるいは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来を伝え,祖神にちなむ2月16日の積塔(しやくとう),6月19日の涼(すずみ)の塔に参集して祭祀を執行した。…
※「当道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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