視覚障害を伴った人。盲は〈もう〉と読み,〈めくら〉という言葉は使わない。盲といえば何も見えない状況の全盲をさすが,明暗の区別がわかる程度のもの(明暗弁)および眼前の手の動きがわかる程度のもの(手動弁)など強度の弱視も含まれることが少なくない。盲人には盲という生理学上の欠損があっても,触覚や聴覚など視覚以外の感覚を活用しての教育が可能であり,不自由を軽減せしめうる。それでも,移動や意思伝達が制限されて社会生活を営むうえでの不利益をこうむるので,その不利を軽減,緩和するための盲人福祉対策と雇用施策が盲教育とタイアップして進められている。
盲人福祉は,盲人を含む身体障害者の人権に基づき,盲人が社会の成員として一般社会の中で納得のいく生活水準を維持し,生活していくことができるよう,国,地方公共団体および民間人があげて取り組むべき〈ともに生きる〉社会づくりでもある。盲人福祉においては感覚訓練,日常生活動作訓練,歩行訓練,点字の習得,職業前訓練など,基本的生活能力獲得のためのリハビリテーション訓練が土台となる。そのうえで職業的自立と訓練と職場の確保の施策を用意するかたわら,年金や手当の支給,眼鏡,安全杖,盲人用時計等,自助具の給付,ガイドヘルパーの派遣,盲導犬の活用助成,住宅改造費給付,ラジオ聴取料等公共料金や所得税の減免措置など必要に応じての諸援助がネットワーク化される必要がある。ことに身体的社会的理由から自宅での養育が困難とされる18歳未満の盲児には,児童福祉法に基づく盲児施設がある。また地域における自立のための生活基礎訓練を必要とする18歳以上の盲人に,リハビリテーションを行う施設として失明者更生施設があり,またあんま師,はり師,きゅう師の免許を持ちながらも自営したり,雇用されたりすることの困難な盲人に生活の場を与え,技術の指導を行い,自立更生を援助する施設として盲人ホームがともに身体障害者福祉法に基づいて設置されている。在宅盲人の通所施設としては,通所授産施設ならびに点字図書館と点字出版施設がある。
欧米諸国でも第1次大戦前まではブラシ,かご,マット作りなどの一定の手仕事が,盲人に伝統的な職業であった。今日,盲人の大学も含む一般高等教育が普及するにつれ,生産部門のみならず各種の専門職につく雇用機会が拡大された。日本では中世以来,芸能が盲人の渡世手段とされ,江戸時代では杉山流の鍼治(しんじ)を代表とする鍼治,灸治および揉療治の3療が盲人の生活手段として一般化した。流し,招訪,居宅という業態で行われてきた3療が今日まで盲人生活を支えたが,その反面,伝統あるゆえにかえって今日盲人の一般人に伍しての職場開拓の妨げになるとの意見もある。現代の盲人の新職域として,カナタイピスト,電話交換手,コンピューター・プログラマーなどの事務系の職業のほか,点字図書館司書,音楽教師,演奏家,教師,ソーシャル・ワーカー,弁護士,などの専門職への進出が課題とされている。
→盲学校
執筆者:小島 蓉子
厳密には種々の眼疾患によって視力を失い,さらに光覚をも失って,明暗を弁ずることもできなくなった状態をさす。この状態はとくに全盲と呼ばれるもので,一般にはもっと広義に,両眼の矯正視力の著しい低下のため,日常生活が不自由な状態を呼んでいる。
教育の場では,〈盲とは視覚による教育が不可能または著しく困難なもので,主として触覚および聴覚など,視覚以外の感覚を利用して教育すべきもの〉とされている。視力の低下により,教育的配慮を要する状態を,次の三つの段階に区分している。(1)盲 視力0.02未満,(2)準盲 視力0.02以上0.04未満,(3)弱視 視力0.04以上0.3未満。
同じ盲と呼ばれる状態でも,その残存視力の程度によって,日常生活および,教育,職業上の困難さも著しく異なってくる。光覚だけでも残っている場合には,それも失った状態と比較すると,単独歩行には非常に有利である。
人間は,生後成長の過程で,外界からの情報の80%を視覚をとおして得ているといわれ,先天的に視覚をもたない乳幼児の場合は,その心身の健常な発達を促すためには,特別な保育,教育上の配慮が必要である。また視覚経験をもって成長した人の中途失明の場合も,失った視覚の代わりに,聴覚,触覚など,他の感覚を用いて,歩行や日常生活動作の訓練を行う必要がある。
これまでは,白杖をアンテナの機能とした歩行,点字による文字の読み書き,職業としてはあんま,はり,きゅうの道に進む場合が多かったが,エレクトロニクスの進歩によって,失った視力に代わるものが開発されることが期待される。
→弱視 →視力 →点字
執筆者:山本 裕子
盲目を含め異形(いぎよう)なるものを神や悪霊などと深い関係にあるとする考えは洋の東西を問わず原始・古代の社会に広く分布していた。このため,盲人は忌み避けられ,賤視される存在でもあった。このような者は貴と賤の両義を未分化のまま内に含んでおり,人々にとって怖れ忌避すべき対象であるとともに霊異の存在として畏(おそ)れ崇(あが)める対象でもあったのである。11世紀の日本の説話集に経を読誦して病をいやし,あるいは旱損の田畠に水を呼び,民衆の崇敬を集めた盲僧の話が伝えられている。古代の記録にみえる盲人はこうした呪術宗教者か,あるいは境の地にたむろし,寺の辺りに立って食を乞う浮浪の徒であったが,古代人は乞食の唱えるわずかの寿言(ほぎごと)にさえ呪力を感じ,その背後に神仏の姿をみていた。盲人には神が憑(つ)きやすく,禍福を招来する霊能があると信じられていたのである。
農耕の予祝や巫覡(ふげき)の託宣,葬送の歌舞などの呪能が芸能へと成長する過程で盲人も芸能者としての道を歩みはじめた。中国ではすでに6世紀に琵琶を弾き説教をする盲人の例がみえるが,宋代になると男女の盲人が琵琶にあわせて小説・平話を唱え,これを〈陶真(とうしん)〉と呼んだ。大陸の盲人琵琶芸との直接の交渉は定かでないが,これまで各地の悪霊や祟(たた)り神を祓っていた日本の盲人たちも11世紀ごろには琵琶を手に入れ,やがて都の市や辻で琵琶にあわせて寿祝の物語を語り,あるいは今様(いまよう)を歌いはじめた。また古代末期の打ち続く戦乱の中で戦没者の怨霊を鎮めた琵琶法師たちはその鎮魂のいくさがたりに説話や伝説・記録などを採り入れて源平合戦の壮大な叙事詩をつくりあげていった。これらの琵琶法師たちの語りは,布教・勧進のための唱導諸芸能の組織化を図る旧仏教の意図も関与して,《平家物語》として集大成されるに至る。しかしその語りを芸能の域にまで磨き上げたのは〈天下無雙の上手〉といわれた明石覚一(かくいち)(1371没)を頂点とする有名無名の盲目琵琶法師たちであった。室町時代の琵琶法師たちは諸国を巡って武士や民衆に平家を語りかけ,また地方の民謡を都に持ち帰って洗練し,表芸である平曲のほかに流行歌(はやりうた)や小歌・早物語などに才芸を尽くして貴賓や町衆に迎えられた。盲女も鼓を打ち,《曾我物語》を語って旅人を慰め,あるいは寺社の境内で本地譚や霊験譚を語り,また《若宮詣》などの祝歌(ほぎうた)を歌って門付をした。盲女をゴゼと呼ぶのは同じく芸能に携わる白拍子を静御前のように〈御前〉と呼んだことからの転訛とされる。
ヨーロッパの盲人も町や村を遍歴して聖人節の祝い歌をうたい,あるいは祭りや饗宴の芸能に脇役を務めた。ロシアでは盲目などの障害をもった遍歴巡礼(カリーキ)が津々浦々を巡り,縁日や定期市の立つ広場あるいは修道院の門前にたたずみ,宗教伝説や聖書外典を主題とする巡礼歌を歌って喜捨を乞うた。
1377年イタリアのパドバにフラギラFragilaと呼ばれる盲人団体が結成され,ついでヨーロッパ諸都市に同職組合に類似した組織をもつ盲人ギルドがつくられた。そのギルドにはイタリア,ドイツ,スペインの諸都市のように乞食を業とする盲人が組織したものと,フランスのパリ・シャルトルのように救貧院を母体とするものがあった。これらはヨーロッパ中世都市の他の乞食のギルドと同様に,最下層の賤民身分に生きる盲人たちがみずからの力で生活を守るために組織したものであり,物乞いの縄張を協定し,自治制度・年金制度などを定めた。
日本では14世紀に入ると平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り,筑紫,明石,京の八坂,坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道(とうどう)〉と呼ばれる座が形成され,覚一の活躍した南北朝時代にその統一的な組織が確立した。この平曲の座は天夜尊(あまよのみこと)(仁明あるいは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来を伝え,祖神にちなむ2月16日の積塔(しやくとう),6月19日の涼(すずみ)の塔に参集して祭祀を執行した。座内には総検校以下検校(けんぎよう),勾当(こうとう),座頭(ざとう)の階級があり,座衆は師匠の系譜によって一方(いちかた),城方(じようかた)の平曲2流に分かれていた。権門を本所(ほんじよ)として祭事を奉仕し,その裁判権に隷従するのは他の諸芸能の座と同様であるが,本所の庇護と座衆の強い結束によって彼らは諸国往来の自由を獲得し平曲上演の縄張を広げ,室町時代に平曲は最盛期を迎えた。
盲目など障害の原因は古来悪霊の祟りによるとされていたが,仏教的因果応報観はこれを本人,親,先祖の前世で犯した悪業の報いとする見方をもたらした。この宿業観は説経,狂言,昔話,俚諺等を通して民衆の心のすみずみにまで浸透し,障害者に対する蔑視と偏見を助長した。中世の盲人がこの因果の重圧に耐え,乱世を生き抜いたのは彼らの芸能と結衆の力によるものである。
近世に入り平曲に代わって浄瑠璃節を語りはじめた琵琶法師はやがて琵琶を新たに渡来した三味線・箏に持ち替え,三都を中心に開花した町人文化の中で旺盛な創作活動を展開し,上方の三味線組歌,生田流(いくたりゆう)箏曲や江戸の山田流箏曲等を生み出した。また,将軍徳川綱吉の侍医杉山和一(わいち)によって盲人に医業への道がひらかれ,近世後期にははり,あんまが芸能に代わって盲人の主要な職業となるまでに普及した。江戸では大名,武家を相手とする座頭金(ざとうがね)(高利貸)が盛行して巨富を積む盲人も出現し,学問の世界では《群書類従》を編纂した塙保己一(はなわほきいち)が頭角を現した。
他方,近世社会の底辺には三味線を手に浄瑠璃,小歌をうたって都鄙(とひ)をめぐり,あるいは吉凶の門に立ち,米銭を乞う座頭・瞽女(ごぜ)の姿がひろく見られた(当道の官位の一つである〈座頭〉は江戸時代には盲人男子一般をさして用いられた)。季節の折々に来訪する盲人たちは労働に明け暮れる農村に娯楽を運び,村人たちは宿や手引きを提供して彼らを歓待した。今日各地に伝承される民謡,伝説,昔話にはこうして座頭,瞽女がひろめたものも多い。
盲人は近世に入っても農耕儀礼や死者供養と結びついて呪術宗教的な古態を残していた。山陰・防長から九州一円にかけて,一部には大和・紀伊にも分布していた盲僧は春秋の地神祭に近隣の檀家を回り,琵琶を弾じて地神経(じしんきよう)を読み,四季の土用に竈神・荒神を祀る竈祓(かまどばらい)を執行し,あるいは息災の加持祈禱を行った。盲僧の琵琶芸は中世の琵琶法師と系譜を一にすると思われるが,祭神,祭式,経文の実態は修験道との交渉を介して道教,陰陽道(おんみようどう),密教等と雑多な習合を遂げていた。その盲僧も祭りの座興にクズレと称する段物(だんもの)を語り,滑稽歌をうたい,しだいに遊芸化していった。
東北地方ではいたこ,イチコ,ワカなどと呼ばれる盲目の巫女が口寄せや加持祈禱,占いを業とし,オシラ人形を回して家内息災の祭文を唱えていた。口寄せは神がかりして死者を呼び出し,その怨念を語らせ荒ぶる死霊を鎮葬するシャーマンとしての機能であり,今も下北の恐山(おそれざん)や津軽川倉の地蔵盆のイタコマチにその跡をとどめている。他方,多く彼女たちの夫であったボサマ(盲人)は東北の伝説を織りまぜて義経の物語を育て上げる。これらのボサマの語りは,一方で,京都に運ばれて《義経記》の素材となり,他方では地方色豊かなこの地方特有の語り物奥浄瑠璃へと発展した。
近世の座頭,瞽女,盲僧はそれぞれ独自の仲間を組織していた。中世以来の伝統をもつ当道座(座頭仲間)は最も勢力をふるい,京都の総検校の下に各藩に支配役を置き,領内を数組に編成して座元・組頭に支配させ,全国に組織を広げた。当道には式目があり,芸能の伝授,上演や階級,師弟,共済,仕置の諸制度を詳細に規定していた。特色のあるのは検校以下73きざみに細分された官位=階級制度であり,座員の権利,服装,日常生活全般にわたり階級による画然たる差別があった。ただし,この官位は一定の官金(免許料)を座に納めさえすれば芸の技能とは無関係に授与された。共済制度も階級によって異なり,検校・勾当など高官者には座の官位免許収入が毎年〈下物(おりもの)〉として配分され,他方,大多数を占める下官の座頭には武家・庶民から徴収した吉凶の施物が〈配当〉として配分された。こうした階級的規制と生活保障は仲間の結束を強固なものにした。
瞽女は近世中ごろから東海,中仙,北陸諸街道筋の城下町,門前町,宿場町を中心に瞽女頭または座元の率いる仲間を組織し,仲間内を数組に分け,さらに師弟4~5人ずつを巡業の単位とした。各仲間ごとに当道にならった由緒書や式目をもち,初心,中老,一老などの階級を定めた。年1度の妙音講(みようおんこう)の祭祀には巡業の取決めや不行跡者の処分も行った。盲僧も各地の寺社と結びついて盲僧頭の下に仲間を組織し,小頭・平僧(ひらそう)などの身分を分かち,妙音講に寄合檀那株の相続や紛争処理を議した。盲僧の縄張は漸次当道に侵食されたが,盲僧仲間は当道に対抗するため1783年(天明3)以降京都青蓮院(しようれんいん)の支配下に入った。
ヨーロッパの盲人ギルドのほとんどが乞食の既得権維持に終始して消滅したのに対し,日本の盲人仲間は盲人の職業的自立と文化への寄与に大きな役割を果たした。明治維新の変革の中で政府は1871年(明治4)当道や盲僧を廃止したが,盲人たちは各地で家元,組合,講を再組織し,盲僧も1875年天台宗の下で復活した。しかし盲僧,イタコ,瞽女は農村の近代化とともにしだいに民俗の舞台から姿を消し,かわってはり・あんまが学校教育を通じて盲人の近代的再編の主要な手段となった。
執筆者:加藤 康昭
盲人が,シャーマン,占師などの宗教的職能者や口頭伝承,語り物の担い手として,特別な役割を与えられている社会は多い。たとえばアフリカのモシ族では,精霊と出会って盲目となったとされる者が占師となり,精霊と人間の媒介者として王や有力者の相談を受ける。盲目の占師は,可視的な現実を見失った代わりに,不可視の現実を〈見る〉ことができる。またソフォクレスの《オイディプス王》で,賢者オイディプスにも見えぬ真相のすべてを見抜いていたのは盲目の予言者テイレシアスだが,この名高い予言者も盲目にされた代わりに予言の力を与えられたとされる。このような盲人の役割は,逆に〈見ること〉の社会的意味を浮彫にしていよう。近代社会では,可視的な現実だけが唯一の現実とされ,〈見ること〉はその現実を網膜にうつすことに限られる。だが他の多くの社会では,不可視の現実もまた全体世界に含まれ,日常的には見えない現実は,たとえば夢や幻視において現実として〈見られて〉いた。とくに,不幸にして盲目となった者は,つねに不可視の現実を〈見る〉者とされた。そして,盲人が口頭伝承の担い手となる社会のほとんどは〈文字〉のある社会である。そのような社会では,視覚に文字を読むことが含まれ,日常的現実において文字による伝達が支配的になるにつれ,視覚的伝達を超えた〈語ること〉の非日常的な力が盲人に帰せられるようになったと考えられる。
また,インド・ヨーロッパ語系などのいくつかの社会の神話では運や富を配分する神が盲目であり,過激な富の増殖や不平等をその盲目性に結びつけている。つまり日常的秩序を超えた非秩序や偶然性の導入が神の盲目性によって表象される。非秩序の導入は,多くの神話や儀礼において,トリックスターや道化の役割であるが,トリックスターが盲人をあざむく話や,道化が盲人の動作をまねて笑いを誘うことは,世界各地でみられる。盲人も道化と同様に,視覚によるコミュニケーションを欠いているという意味で日常的な社会秩序から外れ,普通の人間とは異質な人間とされていたのである。
→片目 →一つ目
執筆者:小田 亮
西洋では,盲目になることは,通常は見ることを許されぬものを見た人や誓いを破った人に下される神罰と考えることが多かった。ギリシアの神話や伝説には,いっさいの立入りが許されないポセイドンの聖域に侵入したアルカディアの英雄アイピュトスAipytos,ほかの乙女とは恋をしないというニンフとの誓いを破ったダフニス等が盲目とされる話がある。これらの神話や伝説は,見ることが必ずしも知ることにつながらず,かえって傲慢や無知におちいり,罰を受ける結果になることを教えている。
逆に盲人には,曇りのない心眼により真理を知り予言を行う力が与えられるとされることもあった。ギリシア神話に語られる古代最高の予言者の一人テイレシアスは,女神アテナの水浴姿を見て盲目にされた。しかし女神はその代償に鳥の言葉を聞き分ける力を彼に授けた。巫女や口寄せの技能とも相通じるこうした盲人独特の技能は歌謡と芸能の分野にも及び,吟遊詩人や楽器演奏者として諸国を遍歴することも多かった。事実,古代絵画においてホメロスはしばしば桂冠を被った盲目の老人として表現され,《オデュッセイア》にもオデュッセウスをもてなす盲目の歌い手デモドコスDēmodokosが登場する。この伝統は中世にまで引き継がれ,大道芸人には盲人が相当数加わっていた。正義の女神ユスティティアJustitia像が目隠ししているのも,曇りある目でなく心眼により公正な審判を下すことの寓意である。
他方,盲目は無知や無鉄砲,また正道を踏み迷うことの象徴でもあった。その典型が愛の神エロス(クピド=キューピッド)で,目隠しをつけたその姿は,世俗の愛の盲目的な力を表している。運命の女神フォルトゥナや復讐の女神ネメシスが目隠しをしている姿は,気紛れや偶然の象徴である。盲人のモティーフはキリスト教でも多用されている。《マタイによる福音書》20章29-34節には,イエスが2人の盲人の目にさわっていやす話があり,また地面につばきを吐き,その泥を目に塗って盲目を治す話も《ヨハネによる福音書》9章1-7節にある。これら奇跡譚はイエスの導きにより無知な精神が啓示によって信仰にめざめる過程を表すとも見られる。またブリューゲル等の画題となった〈盲人の行列〉は,1人の盲人が盲人を手引きすれば2人とも穴に落ちるというたとえ話で,イエスがパリサイ人をさして語った言葉(《マタイによる福音書》15:14など)から出た。このほかにキリスト教美術では目隠しした乙女像がユダヤ教会(シナゴーグ)を表し,キリストの教えを知らないユダヤ教徒の心の闇を暗示する。また目隠しされた聖人の場合はバプテスマのヨハネやパウロを表し,殉教を示すことになる。
18世紀になると,哲学や医学からの新しい関心が盲人に対して向けられた。ディドロは《盲人書簡》(1749)を著し,盲人と晴眼者の認識や理解力の異同を考察した。彼はその中で,盲人は裸で町中を歩いても正気でいられるなど倫理道徳面で晴眼者と大きく食い違うこと,幾何学のような視覚を前提とした学問の理解が盲人には難しいことなどを述べ,J.ロックの経験論を踏まえ感覚=体験と思考活動の密接な関連を論じた。F.A.メスマーは,3歳で盲人となった女流ピアノ奏者を〈動物磁気〉により治療した。しかし患者は目が見えるようになったあと,従来どおりの名演奏を行えなくなったという。ほかにH.ケラーの場合を含め,盲人の心理への関心は現代にまで継続されている。
執筆者:荒俣 宏
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…寺領荘園の荘官やときには国衙(こくが)の役人にも検校の称があり,これらは俗人の検校とも考えられる。(3)盲人最高の官位としての検校。中世以来,盲人は普通は法体となり,平家琵琶(びわ),鍼灸(しんきゆう),もみ療治,箏曲,三味線などの職業に従った。…
…近松門左衛門作《出世景清》,文耕堂・長谷川千四合作《壇浦兜軍記》をはじめ,景清物の多くは幸若舞《景清》をもとに,翻案・改作したものだが,作者未詳の《鎌倉袖日記》のように景清の娘の人丸をヒロインとした謡曲《景清》の翻案もある。 景清と盲目・盲人との結びつきは,景清が流された(または所領を与えられた)日向の宮崎に,景清をまつる生目(いきめ)八幡社があり,近世を通じて日向地方の盲僧の拠点になっていたことからもわかる。出羽の羽黒山には,かつて景清を開祖とする盲僧派があったといわれ,また〈隣の寝太郎〉型の昔話の一つに,寝太郎の先祖じつは悪七兵衛景清とするのも,〈景清を元祖とする盲人の一群〉があって,彼らが昔話の伝播にあずかったためといわれる。…
…日本の歴史的な社会組織。本来は学芸・技芸において,専門とするものについて,みずからいう場合の語であったが,中世以降,狭義には盲人組織をいった。 盲人の技芸者は,盲僧として宗教組織に編入されていたが,その中から《平家物語》などの合戦譚を琵琶伴奏で語る僧が出現した。…
…その名が光明を意味するところからランプ,ほかにシュロ(ナツメヤシ)の葉,剣を伴うこともある。盲人や眼病に苦しむ人の守護聖人。祝日は12月13日で,中世の暦では冬至にあたったため,昼が長くなることとルチアの名を結びつけて祭り(ルチア祭)が行われ,スウェーデンなどには今日も残る。…
※「盲人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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