波瀬村(読み)はぜむら

日本歴史地名大系 「波瀬村」の解説

波瀬村
はぜむら

[現在地名]一志町波瀬

雲出くもず川の支流波瀬はぜ川中流にあり、周囲を山岳・丘陵地帯に囲まれ、東の井関いせぎ村および南西矢頭やず(仁王峠)を経て多気たげ(現美杉村)へ通ずる多気道が村内を通る。中世においては多気から北畠氏が伊勢平野へ進出する主要な交通路をなした。また村の西八ッ組やつぐみ峠および弘法こうぼう越を経て川口かわぐち(現白山町)へ、東は釜生田かもだ(現嬉野町)古田ふつた越で通じ、駒返こまがえしを越えて島田しまだ(現嬉野町)に通じた。また西南桑俣くわまた峠は八手俣はてまた(現美杉村)に越え、足谷あしたに峠は寺広てらひろ(現美杉村)に通じるなど交通路は開けていた。

中世に入り建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)の「(波)出御厨給主前和泉守通基」や「神宮雑例集」にみえる一志郡内宮御領波弖御厨が波瀬の地と考えられる。「神鳳鈔」にも「内宮波互御厨四丁九段、六石、六九十二月」がみえる。また元暦二年(一一八五)六月一五日の源頼朝下文(島津家文書)に「下 伊勢国波出御厨 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久」とあり、伊勢における平家の首領平信兼を滅ぼし、信兼の所領であった波出御厨の地頭職を島津忠久に任命している。


波瀬村
なみせむら

[現在地名]厳木町大字浪瀬なみせ

八幡はちまん岳の稜線が北東に延び、厳木川の左岸の支流波瀬川がつくる山間の小盆地にある。

現在は「浪瀬」と記す。波瀬とは清らかな川の流れる里を意味するという。正保絵図に村名がみえる。中世において、厳木郷と大川野おおかわの(現伊万里市)を結ぶ通路にあたっており、戦国末期、岩屋いわや村との境の獅子ししヶ城に鶴田氏が居城していた。なお平安末期に獅子ヶ城を築いたという源(峯)披の墓地は字向前むこうまえにある。土地の人は「ヒラッコさん」と称する。文久三年(一八六三)平戸ひらど藩主松浦詮が浦河うらかわ(川)村庄屋秀島鼓渓の助言をえて、同家の始祖として奉祀している。


波瀬村
はぜむら

[現在地名]飯高町波瀬

桑原くわばら村の西にあり、村域の南部を櫛田くしだ川が蛇行する。櫛田川河岸段丘に沿って和歌山街道が通る。一志郡に同名の村があるため、区別する意味で当地を俗に川俣波瀬かばたはぜとよぶ。天正五年(一五七七)北畠具親挙兵の際、具親に味方した「南伊勢譜代相伝之侍共」のなかに川俣筋として波瀬・峰氏らの名がみえ、一味同心して具親を森城へ迎え守護したといわれる(勢州軍記、五鈴遺響)

寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「波瀬村」と現れる。和歌山街道の宿駅として知られ、本陣(中村屋、現田中氏宅)は和歌山藩主が参勤交代の途中利用した。現在も本陣の面影が残っている。また高札場となり、伝馬所が置かれた。


波瀬村
はぜむら

[現在地名]田原町波瀬

うら村の北に接する丘陵に位置し、渥美湾に臨む。当村庄屋佐兵衛の歳中記録附(柴田家蔵)によれば、享保元年(一七一六)に浮役高として塩一石五斗が定納となっており、「塩三升が米一升代え」と記されている。延享四年(一七四七)の田原領高根付並免付帳(田原町蔵)には「波瀬村分一、浮役高一石塩浜高ニ入」とある。塩浜で濃縮された塩水を煎る塩小屋が明治期まで所々にあったという。当村庄屋三郎兵衛の調査によれば、文久二年(一八六二)から明治七年(一八七四)の間に、塩業を営む家六六軒、塩田総坪数二町六反六畝一一歩、製塩作業にはもっぱら女性が従事した(「永代記録書」柴田家蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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