佐賀の戦国大名。父は竜造寺氏の支族水ヶ江周家。幼少で出家し中納言円月と称す。父周家,曾祖父家兼の没後に還俗して竜造寺本家を相続し,民部大輔隆胤と称した。1547年(天文16)少弐時尚(冬尚)を討って,大内義隆から肥前代官に任命され,50年大内氏から加冠をうけ山城守隆信と称する。その後,大友氏から攻撃を受けて筑後に敗走したが,53年に佐賀城,水ヶ江城を奪回。58年(永禄1)少弐時尚を討ち,70年(元亀1)に大友氏を破って肥前一国に勢威を振るう。さらに天正期に入り肥前一国を平定し,78年(天正6)には筑前・筑後国に,翌年には肥後国北東部,ついで豊前3郡に勢力を拡大し,ついに島津・大友氏と並ぶ五州の太守となる。80年には子政家に地位を譲って隠居。しかし実権を握り,実戦には先頭に立つ。84年肥前有馬氏が島津氏と提携したため,みずから大軍を率いて島原に赴いたが3月24日に敗死した。養子縁組や人質・起請文を提出させて在地武将を把握。譜代重臣の筆頭に鍋島氏があり,その他に福地,百武,小河,納富,江副氏がある。全盛期の統率下の家臣は一門27名(知行面積1万0461町),国侍215名,他国侍58名(知行面積7万0029町)といわれ,その家臣の中心は200~100町歩を領する在地武士であり,また譜代家臣は南部の与賀・川副地域の地侍層であったといわれている。
執筆者:森山 恒雄
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(佐伯弘次)
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…肥前国佐賀郡本庄村の土豪に出自する。竜造寺隆信が領域を拡大する過程で鍋島直茂も寄与した。竜造寺隆信が1584年(天正12)島原で敗死したことにより竜造寺家中での実権を掌握する。…
…竜造寺氏は肥前国に進出してきた大友氏に対抗するため大内氏に接近し,さらに大内氏滅亡後は毛利氏と結び,肥前各地の土豪を征服し,戦国大名として急速に発展した。このほか後藤氏,波多氏,松浦氏,大村氏,有馬氏などの諸豪族が輩出したが,78年(天正6)ごろには竜造寺隆信によってほぼ肥前全域は平定された。ところが有馬氏を討つため島原半島に上陸した隆信は,島津・有馬連合軍との合戦で84年3月戦死した。…
※「竜造寺隆信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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