鉄砲町(読み)てつぽうまち

日本歴史地名大系 「鉄砲町」の解説

鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]山形市鉄砲町一―三丁目・八日町ようかまち二丁目・三日町みつかまち一丁目・あずま町あずまちよう若葉町わかばちよう末広町すえひろちよう荒楯町あらたてちよう一―二丁目など

五日いつか町・八日町の南にあり、城下の最南部に位置する。鉄炮町とも記し、当初は山形城下南辺の守りとして、鉄砲衆の集住する町であった。嘉永二年(一八四九)には六椹むつくぬぎ八幡宮をはじめ、修験宗別当明秀院、同宗社僧来吽らいうん院・明覚院、天台宗宝光ほうこう院、曹洞宗法恩ほうおん寺・大昌だいしよう院、臨済宗勝因しよういん(現臨済宗妙心寺派)、日蓮宗玄妙げんみよう寺、時宗向泉こうせん寺、修験宗の宗福そうふく(現天台宗)龍宝りゆうほう(現真言宗醍醐派)があり、寺社境内地は一〇町余に相当する広大な地域を占めていた(同年「山形社寺調町々高明細帳写」長井政太郎氏旧蔵文書)


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]島原市下の丁したのちよう城西中の丁じようせいなかのちよう古丁ふるちよう下新丁したしんちよう上新丁うわしんちよう

島原城の西手に置かれた武家地。鉄砲丁とも。島原城に近いほうから下ノ丁・新建しんだち・中ノ丁・古丁・下新丁・上新丁の六通がある。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳に島原村内の城内用地として「鉄砲町先蒐」などがみえ、「鉄炮町中ノ町」に清水がある。この清水は街路の中央に設けられた水路を流れ(水道とよぶ)、飲料水などに充て、日に三度川奉行が巡見を行った。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]弘前市鉄砲町

城の東側に位置し、百石ひやつこく町と元寺もとてら町の間の東西に走る道筋沿いの町並。北は上鞘師かみさやし町、南は一番いちばん町に接する。

現町域が町割されたのは慶安二年(一六四九)てら町大火後で、それ以前は同年の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、寺院が置かれ寺町とある。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)には、本寺もとてら町二丁目とあり、延宝五年(一六七七)弘前惣御絵図(同館蔵)には、白銀しろがね町二丁目とあり町名は一定していない。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]中区にしき二―三丁目・さかえ二―三丁目

ほん町筋を熱田に向けて南下し、ほぼ碁盤割を出たところにある。玉屋たまや町と中須賀なかすか町に接する。蒲焼かばやき町から入江いりえ町筋までの二丁をさす。慶長年間(一五九六―一六一五)清須きよすより移転したが、「引越年月、清須にて何町と相唱」えたかは不詳(蓬左遷府記稿)。初め清須の鉄砲師が居住したのが町名の起り。のち彼らを御園みその大下おおしたへ移動させ町地とした(金鱗九十九之塵)。しかし藩政初期の鉄砲町は両側に町屋が並ぶ程度の野原で、雪の降る日には兎狩が行われたという(鉄一筋)

名家には江戸守随家の分家にあたる名古屋秤座守随徳治郎、塩硝御用達駒屋文助、諸病売薬所三芳屋半右衛門、義歯義眼工の備考斎和助、御用達商人除地衆の鉄物商笹屋岡谷惣助も有名。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]出石町鉄砲・宵田よいだ寺町てらまち

谷山たにやま川を挟んでうら町の北に位置する。武家町で、町の北・西を外堀がめぐる。文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、谷山川の北を並行する長さ九八間・幅二間の東西路の両側に屋敷が並ぶ。この道筋は東は如来によらい寺に至り、西は長さ二八間の南北路に突当った。この南北路を南に折れると裏町の下横しもよこ町に通じ、北に折れれば枡形(構口)の番所を経て外堀に架かる橋を渡って豊岡へ向かう道(豊岡街道)の松畷に出た。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]米沢市中央ちゆうおう三丁目

たつ町の北、鍛冶かじ町から続く東西の道の両側に配置された町人町。脇町一三町の一。鉄砲屋町とも称した。慶長九年(一六〇四)直江兼続が近江から吉川惣兵衛を、泉州さかい(現大阪府堺市)から和泉屋松右衛門を招き、せき村の白布高湯しろぶたかゆで鉄砲を製造させた。彼らが同一四年頃までに白布から当町に移住したものとされる(米沢雑事記)。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数三一余(すべて諸税免除)。同年の町方書上(米沢の町人町)によれば家数三八で全戸鉄砲鍛冶、うち間口二〇間以上が五戸あった。享保一〇年(一七二五)の町方書上によれば町の長さ二町一間余・道幅六間、家数のうち本屋二八・名子四五。ほかに小島御蔵に至る長さ二五間・道幅一間の脇町、立町から番匠ばんしよう町への入口に至る長さ二五間・道幅一間余の脇町がある。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]宇都宮市馬場通ばばどおり一―二丁目・曲師町まげしちよう

南の曲師町東端から北へ折れる奥州街道筋の町人町。北端は突当り、西は杉原すぎはら町、東は馬場ばば町、西はかま川を隔てて江野えの町。宇都宮氏時代に鉄砲鍛冶を住まわせたのが町名の起りと伝える。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は、大明神境内などを担当したと思われ、持分なし(宇都宮史)


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]津和野町後田うしろだ

祇園ぎおん町尻の石垣堤から津和野川沿いに延びる南北道の両側に沿う足軽屋敷町。城下の北の出入口にあたり北入口には石垣堤・番所が設置され、警備の任にあたる足軽が配された。ここから津和野川沿いに寺田てらだ村から岩瀬戸いわせど樫実かしのみ峠越で商人あきんど村へ出て青原あおばら(現日原町)へ通じていた。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では、東西両側に多胡外記組・牧図書組の足軽屋敷四〇軒(うち小頭屋敷二)がある。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]中区鉄砲町・上幟かみのぼり町・八丁堀はつちようぼり上八丁堀かみはつちようぼり

上流川かみながれかわ町の西側筋で、北は藩主の泉水せんすい屋敷(縮景園)の西側を通り町地の東白島ひがしはくしま町まで、南は町地のえびす町までの間。武家屋敷町。「知新集」に「此ところ御家中町の筋なれハ、もと鉄炮の打場なりしゆゑかく唱ふるか」と記すが、家中鉄砲組の士が集住したものである。元和五年広島城下絵図には町名はないが、「此道筋北南町屋境迄五百二十間」とある。

京橋きようばし筋と交差する辺りの北、西側に浄土真宗本願寺派超覚ちようかく寺があるが、「芸藩通志」は「林鶯山憶西院と号す、皆北畠親房卿の故事によれるなり、旧は紀伊海士郡打越村にて弥勒寺と号し、円仁大法王の開基にて、寺領千石ありて古名刹たり、第廿五世起仁は北畠晴具卿の次子なり、始て真宗になりて超覚寺と改名す、(中略)天正年中門主顕如を寺内に迎ふ、信長怒て寺領を没収せらる、藩家入封の後慶清従ひて此に来り、今の地を賜ひ本堂を建たまひぬ、宝暦・天明再び火災にかかる」と記す。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]津山市鉄砲町

南新座みなみしんざ侍屋敷から藺田いだ川を隔てて西に続く武家町。西は西寺にしてら町南の溜堀、南は吉井川、北は西寺町。正保城絵図には足軽町、元禄町絵図は足軽屋敷と記す。城下東部の鉄砲町に対して西鉄砲町と称した時期もある(津山誌)。町の東西の通りは、北から小人町通・中之なかの町・土手どて筋と称し、南北の通りは西から上横かみよこ町・中横なかよこ町・下横町・藺田筋と称した。このうち藺田筋は江戸時代には備前往来であったが、明治初年土手筋に変わった(同書)


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]金沢市池田町いけだまち

十三間じゆうさんげん町の北東にあり、通りが数本に分岐。北西は大工だいく町、南東は池田屋いけだや小路、北はたて町に続く。大工町の横小路。元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)に島田勘兵衛上地町の次に鉄砲町とあるが、当町との関連については不明。町名は御先手組鉄砲足軽の組地にちなむ。御先手組は貞享三年(一六八六)に置かれ、それまでは「弓之者」「鉄砲之者」とよばれていた。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]加賀市大聖寺鉄砲町だいしようじてつぽうまち

一本橋いつぽんばし町の東に続き、あら町の裏通りにあたる。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図によるとほとんど足軽と徒士の住む町で南側に松縁しようえん寺・専称せんしよう寺と前田氏下屋敷があった。弘化三年(一八四六)の覚(西尾文書)に「鉄砲町・弓町ハ足軽類之外、跡々申渡候通リ被下間敷候」とあるように足軽などの専住地とされ、明治時代初期の近世江沼変革録(加賀市史料)でも「足軽町」とされている。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]秋田市おお町六丁目の一部

十人衆じゆうにんしゆう町の西、八日ようか町の南に続く。「梅津政景日記」元和五年(一六一九)一一月二三日条に、「鉄砲町ニ慮外者有之由、申来候間、様子尋候へハ、酒ニ酔候て、鉄砲弥右衛門所へはいり」とあり、鉄砲町に鉄砲弥右衛門が住んでいた。同年一二月一六日条によれば弥右衛門は石火矢すなわち鉄砲鍛冶であり、町名の由来となった。

日常的な家督商売がなかったためか、天明四年(一七八四)頃、菓物家督商売を許された。その証文に、杏・林檎・梨・栗・串柿・青梅など「右品、河辺郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡右村々より川下ケ致候分於丁内永久家督ニ申付候、他町勝手ニ積下ケ候儀被停止候」とあり、川上四郡川下菓物の独占的な売買を許された。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]中央区大名だいみよう一丁目

養巴ノ丁東端を少し北に上り、東に折れた東西の通りの両側町。福岡博多近隣古図では「薬院鉄砲丁」と記される武家町で、東西七三間一尺、北は薬院やくいん町、南は東小姓ひがしこしよう町。宝永分限帳(集成)に「鉄炮町北側」としてみえる八軒・一寺のうち、光泉寺(光専寺)までの藪弥次兵衛下屋敷(禄高七〇〇石、本丸定番として福岡城内に居住)など四軒・一寺が鉄砲町北側、「鉄炮町南側」としてみえる一一軒のうち西から間島十三郎(禄高一千石)屋敷までの五軒が鉄砲町南側の範囲と考えられる。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]笠間市笠間

城下の北に位置し、しん町の北端から西へ延びる道の両側に武家屋敷が並ぶ。上の石橋から下の桝形まで東西三町一二間、桝形からかめふちまで四六間(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)。当地は中世には三所さんじよ神社の馬場先で、二の鳥居が町の中ほど、三の鳥居が涸沼ひぬま川に架かる亀ヶ橋の手前の桝形にあった。また笠間城と下野国を結ぶ主要道の分岐点であったが、おお町・高橋たかはし町の建設に伴って旧道となり、寛永年間(一六二四―四四)に鉄砲歩卒の中下級武家屋敷町として整備された。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]高知市桜井さくらい町一―二丁目・宝永ほうえい

北新きたしん町の北側、東西に並行する片側町。西は横堀を挟んで山田やまだ町。東はてら町。北側をくち川が東流する。町立て当初、堤防守備のため鉄砲方足軽を多数居住させたためにこの名がついたといわれる。足軽町と記された時代もある(寛文七年城下町絵図「皆山集」所収)


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]仙台市鉄砲町・小田原おだわら二丁目

二十人にじゆうにん町の北裏にある鉄砲足軽屋敷。西は東七番ひがししちばん丁北続きのくるま町の通りに突当る。正保仙台城絵図では西側の一部が割られ、屋敷東に本丸から当地まで三〇町と記される。寛文九―一一年(一六六九―七一)の城下絵図では東に大きく割増しされ、東端にわずかに職人屋敷が割付けられている。また同絵図でみると当町中ほどより二十人町に至る小路に神武天皇を祭神とする和光わこう明神が祀られており、同小路を和光明神横わこうみようじんよこ丁とよぶ。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]近江八幡市鉄砲町

八幡町北部の一角を占め、八幡堀の内部にある唯一の町。いずれも堀を挟んで東はふな町、南は薬師やくし町。いわゆる多賀たが村六ヵ町の一。元禄町絵図に町名がみえ、町の北に妙法みようほう寺屋敷跡(現黄檗宗、享保三年に再建された)、東端に多賀村の郷倉が描かれる。「輿地志略」にも鉄砲町一町とある。八幡城下形成時に鉄砲鍛冶を戦略上からおもに武家屋敷地であった八幡堀内に置いたと考えられるが、詳細は不明。元禄期(一六八八―一七〇四)以降の畑屋敷高は四石余、妙法寺屋敷高一石余(「八幡町屋敷畑高覚帳」近江八幡市共有文書)


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]高山市鉄砲町

東と北を江名子えなこ川で区切られ、西は照蓮しようれん寺を中心に形成された寺内じない町に接する。長さ一町余の細長い町(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)一之町いちのまち村に所属し、町名は金森氏時代には侍屋敷地で三〇余軒の武家屋敷や扶持人屋敷が建ち、鉄砲組が住んでいたことによるとも、あるいは鉄砲鍛冶がいたことに由来するとも伝える。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]上野市鉄砲町

西はよろず町、東は愛宕あたご町、南に愛宕神社がある。「宗国史」伊賀志の上野府「仕家第宅」の「城外凡八十二」のうちに東鉄砲町・西鉄砲町の名があり「旗卒廠二」で「一在西鉄砲町 一在鉄(ママ)砲町」、「銃卒廠九」で「二在西鉄砲町 四在東鉄砲町 一在外馬場通ノ東 一在右ノ南町 一在妙花寺町南」とある。鉄砲組衆の屋敷町で、寛永絵図(岡森明彦氏蔵)には落合左近組・石田三郎左衛門組・須知孫左衛門組・小川五郎兵衛組・中小路助進組の預り鉄砲衆の屋敷があり、個々の武家屋敷はない。


鉄砲町
てつぽうちよう

[現在地名]松山市鉄砲町・文京ぶんきよう

松山城下町の北端に位置し、傘屋かさや町に平行する東西の通りとその周辺を含む町。東は水口みなくち町、西はしん町、南は傘屋町、北は味酒みさけ村に接する。鉄砲製造業者が居住したので、この町名が生れたとの伝承がある。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)のなかにも、その頃の各種の松山城下町図にも、この地域が清水しみず町と書かれているので、初め清水町に属していたが、江戸後期になって鉄砲町と公称されるようになったのであろう。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]厳木町大字中島なかしま

この集落は、文禄三年(一五九四)寺沢志摩守が唐津藩主となり旧領主波多氏の家臣を元和年中(一六一五―二四)郷足軽に取り立て、国境警備役としてこの地に居住させ、日常三名にて役向きを勤めさせたことに始まる。「松浦要略記」には「波多浪人の者共被召寄(中略)其後小麦原・畑津・中島にて弐拾四人御取立、国境相守る儀被仰付候」と記す。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]米沢市下花沢しもはなざわ二―三丁目

うえノ町の北に続く下級家臣(原方衆)屋敷町。城下東端のいま町から川井かわい村へ抜ける川井道に沿う両側町。花沢八町の一。明和六年(一七六九)の原方屋敷絵図(市立米沢図書館蔵)によれば家数六四。弘化三年(一八四六)の屋敷割帳では御扶持方・百挺・会所役人など屋敷三七、空屋二一、武芸所・番所各一。


鉄砲町
てつぽうまち

[現在地名]糸魚川市清崎きよさき新鉄しんてつ二丁目

東西に走る北陸道から信州街道が分岐し、ひめ川に沿って南へ向かう。信州街道に沿って新田しんでん町があり、コの字形に曲がって南の鉄砲町に続く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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