妙法寺(読み)ミョウホウジ

デジタル大辞泉 「妙法寺」の意味・読み・例文・類語

みょうほう‐じ〔メウホフ‐〕【妙法寺】

東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗の寺。山号は、日円山。元和年間(1615~1624)に日逕にちけい真言宗から日蓮宗に改め、「堀の内のお祖師様」として庶民の信仰を集めた。

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精選版 日本国語大辞典 「妙法寺」の意味・読み・例文・類語

みょうほう‐じメウホフ‥【妙法寺】

  1. [ 一 ] 東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗の寺。山号は日円山。もと真言宗であったが、元和年間(一六一五‐二四)日円尼が現宗に改め、その子日逕が命名。日朗作の祖師像を祖師堂に安置し、厄除(やくよけ)に参拝する人が多い。厄除祖師。ほりのうちのお祖師様。
  2. [ 二 ] 神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の寺。山号は楞厳山。建長五年(一二五三)日蓮が最初に小庵を営んだ松葉ケ谷(まつばがやつ)の地にある。延文二年(一三五七)日叡が建立。松葉ケ谷。
  3. [ 三 ] 山梨県南巨摩郡増穂町にある日蓮宗の本山。山号は徳栄山。文永一一年(一二七四)日蓮に帰伏した真言宗の僧善智が改宗、日伝と改名して開創。小室山。小身延。

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日本歴史地名大系 「妙法寺」の解説

妙法寺
みようほうじ

[現在地名]増穂町小室

畔沢くろさわ川をさかのぼった北川きたがわ集落の中心に位置する。徳栄山と号し、日蓮宗。本尊は大曼荼羅。慶応四年(一八六八)当寺が提出した由緒書(寺記)によると、当寺はもと仁王山護国院金胎寺(創建年代不明)と称する真言宗寺院であった。文永年間(一二六四―七五)多門丸という鞍馬くらま(現京都市左京区)の稚児が修験の道に志し、恵澄坊と号し(「甲斐国志」では善智と称したという)、当寺において学び、恵澄(「甲斐国志」では恵長とする)肥前阿闍利法印と称した。「甲斐国志」によると真言宗で肥前上人というのは、東三十三国の山伏の司という。恵澄は同一一年身延山入りの途中で当寺に寄った日蓮と法義を抗論し、屈服させられる。面従腹背の恵澄は建治年間(一二七五―七八)に日蓮の毒殺を謀るが、見破られて失敗。罪を謝して名を日伝と改め、日蓮手書の本尊を与えられ、身延みのぶ山に草庵を営んだ。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]津山市西寺町

日蓮宗、長昌山と号し、本尊は十界大曼陀羅。正保城絵図に東西に走る出雲往来の南側から吉井川岸、備前往来に至る南北の道の西側にかけて四ヵ寺が記され、元禄・宝永の両町絵図では北から妙法寺・本行ほんぎよう寺・妙勝みようしよう寺・顕性けんしよう寺と並ぶ日蓮宗寺院群が描かれており、浄土宗寺院地域に対する日蓮宗寺院地域になっている。「美作国寺院」(弓斎叢書)によれば四ヵ寺はいずれも妙覚みようかく(現京都市上京区)の末寺で、日奥の不受不施門流に属したが、寛文年間(一六六一―七三)の不受不施派弾圧政策のため転向した。

妙法寺は西寺町最大の寺で城下三大寺の一つ。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]河口湖町小立

南に富士、北に河口湖の景勝地に位置する。法華宗(本門流)、山号は蓮華山、本尊は十界大曼荼羅。弘安元年(一二七八)日蓮が当地教化の際百姓二八人が帰依し、そのうち信者頭の三人は妙法・妙吉・日長(藤太夫)という法号を受けた。日蓮は柳の筆で二八紙継ぎの大曼荼羅を書き、これを二八人の総代である日長に与えた(寺記)。これを喜んだ日長は日蓮説法の地に小庵(祖師堂)を創建して大曼荼羅を安置、その後駿河光長こうちよう(現静岡県沼津市)の日法に大曼荼羅を贈り、日法より八紙継ぎの曼荼羅を授与されその末院となる。また日長は法華堂を建立し、永仁三年(一二九五)妙法は堂舎をさらに拡大して当寺を建立、その開基となった。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]八尾町井田

新潟県三条市本成ほんじよう寺を本山とする法華宗陣門流の寺院。本尊十界大曼荼羅。本成寺九世日覚の隠居所菩提心ぼだいしん院が寛永八年(一六三一)に常遠院妙法寺の寺号を授けられて成立。本成寺の「長久山歴代譜」では日覚の本成寺退院は天文九年(一五四〇)とあるが、これは江戸時代後期の編纂書であり、信用に欠ける。本禅ほんぜん(現京都市上京区)の「光了山歴代譜」には、大永七年(一五二七)「本成寺を意師に任し、越中井田に隠棲す。又は九年ともいう」とあり、それに従うべきであろう。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]須磨区妙法寺

神戸市営地下鉄妙法寺駅の東にある高野山真言宗の寺。如意山と号し、本尊毘沙門天。天平一〇年(七三八)行基の創建と伝える。「摂津名所図会」によると聖武天皇の勅願所で、三七宇の坊舎があったが荒廃し、承和六年(八三九)定範が中興、福原ふくはら遷都のとき高倉院が王城守護を祈って新鞍馬しんくらま寺の勅号を与えたが、南北朝時代に高師直の軍兵に破壊され、その後再興されて奥院(蓮台寺)・薬師堂・阿弥陀堂など七宇があった。鎌倉時代初期の「発心集」に「津の国和田の奥に妙法寺と云ふ山寺あり、かしこに楽西と云ふ聖人住みけり」とあり、平清盛が楽西の噂を聞いて便りや布施をしたという。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]堺市中之町東四丁

大阪中央環状線から一筋南、土居川どいがわ公園の西側にある。日蓮宗、山号長栄山、本尊十界大曼荼羅。俗に二条半にじようはんという。興国六年(一三四五)微妙坊日祐が開創した。日祐は同宗本山京都妙顕みようけん寺の開山日像の弟子。天文年間(一五三二―五五)茶人として著名な武野紹鴎の友人北向道陳と京屋道寿らが荒廃していたのを再興した(「妙法寺中興之末興隆古老所伝并日遥現見記録」寺蔵)。天正年間(一五七三―九二)建立(同文書)。三十番神堂を革屋重善の女妙善が、御影堂を革屋道賀の女妙祐が建立。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]鎌倉市大町四丁目

安国論あんこくろん寺の北にある。日蓮宗、楞厳山と号する。もと京都本圀ほんこく寺末。開山日蓮、中興開山は五世日叡といい、本尊は釈迦三尊。文明二年(一四七〇)の日親「伝燈抄」に「塔ノ辻にありし妙法寺を現地に移せり」とある。

寺地は日蓮の松葉まつばやつ小庵跡と伝え、宝永三年(一七〇六)刊の正満院日雄「勅願所広布録」も「同○建長五年八月廿六日於鎌倉松葉谷結小庵、祖師住此地前後十余箇年、始法華堂、後号本国寺、尤一宗最初の精舎也」と記している。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]和島村村田

村岡むらおか城跡の麓にある。日蓮宗、法王山と号し、本尊十界大曼荼羅。日蓮宗四十四本山の一。伊豆国妙法寺の日昭が風間信濃守信昭を開基檀那として創立したと伝える。もとは村岡城跡出丸のあったびよう山山麓の治暦ちりやく寺の地にあったが、城主村岡三郎が南北朝の争乱で敗れて廃城となった頃、現在地に移ったという。治暦寺の寺地には古寺屋敷ふるてらやしきの地名が残り、廟山には二祖日成以下の妙法寺歴代祖廟と風間信濃守の一族のものと伝える墳墓がある。日昭の墓は妙法寺境内にある。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]藤枝市藤枝四丁目

大慶だいけい寺の南方、清水きよみず川の左岸にある。一乗山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、平家の落人が当地に居住し医師をしながら数代が過ぎたが、子孫の為作に子供がいなかった。あるとき妻は懐妊、難産で没したものの男子が生れ出た。このとき京に上る途次の日昭が為作の家に立寄ったため、為作がこの話をすると、これこそ日蓮の教えなりと答えた。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]丸亀市富屋町

江戸時代の城下富屋とみや町の南部にある。寺の前の三差路は金毘羅参詣客の通過路であった。天台宗、正因山実相院と号し、本尊は金剛界大日如来。左右に智証・伝教大師像を安置。蕪村寺として知られる。「西讃府志」によればもと日蓮宗で、豊田とよた坂本さかもと(現観音寺市)から慶長年間(一五九六―一六一五)に移された。「讃岐国名勝図会」は、坂本郷の前は豊田郡和田わだ(現三豊郡豊浜町)にあり、文禄年間(一五九二―九六)坂本に移り、さらに生駒氏により丸亀へ移されたのは慶長二年とする。寺伝によれば日蓮宗不受不施派であったため寛文六年(一六六六)弾圧を受け、同九年天台宗に改宗した。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]岩瀬町本郷

本郷ほんごうの南の集落にある。秋山と号し、天台宗。本尊は水引地蔵菩薩。寺伝によると延暦年間(七八二―八〇六)下野大慈だいじ寺の広智が坂戸さかど郷の草庵の尊像に魅せられて、堂宇を創建という。天安年間(八五七―八五九)慈覚大師が堂宇を改修し地蔵菩薩を安置したといい、延喜年間(九〇一―九二三)亭珍が阿幾耶摩山法教寺と称して中興、天慶三年(九四〇)平将門の乱の時戦火にあうという。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]会津若松市馬場本町

妙法寺前みようほうじまえ通の西側にあり、宝塔山と号し、顕本法華宗。本尊は十界曼荼羅。明徳二年(一三九一)日什の開基。日什は正和三年(一三一四)会津郡滝沢たきざわ村に生れ、湯本ゆもと村の東光とうこう寺で出家、比叡山延暦寺で修行し、五八歳で会津の東光寺に戻る。六七歳のとき、天台宗をやめて法華宗に帰依する。明徳二年領主蘆名直盛は黒川くろかわに寺を建立して日什に与えた。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]東成区大今里四丁目

真言宗御室派、山号密華山、本尊聖観音。寺伝によると聖徳太子が創建、隆盛時は塔頭一二坊・講田を有していたが、天正期(一五七三―九二)の石山合戦の兵火で罹災、塔頭角の坊のみを残して衰退したという。慶安三年(一六五〇)のちに国学者として著名になった契沖が入寺し、住職の(一説に手定)に師事、二年間般若心経などの勉学に励んだ。契沖は当寺で剃髪後、一三歳で高野山へ修行に出、下山後和泉地方を転々とし、延宝七年(一六七九)四〇歳の時、住持として当寺へ帰った。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]東彼杵町三根郷

彼杵川右岸、番神ばんしん山の南東にある。番守山と号し、日蓮宗。本尊は宝塔・釈迦如来。寛永四年(一六二七)大村藩三代藩主大村純信が松岳まつたけ山南麓に建立、本経ほんきよう(現大村市)三世の日忠を開山とし、寺領は一〇石(大村郷村記)。同一八年京都本国寺(本圀寺)の日審が大村で布教を行った際、純信の帰依を受けたことから三十番神を勧請、山名を番神岳とも称し、山号を番守山とした。


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]早島町早島

頓行とよくにある。日蓮宗、もと山城石塔せきとう(現京都府向日市)末。寛永六年(一六二九)現在地より北東の丘上に堂宇を創建し、法華庵と称した。寛文一二年(一六七二)現在地に移転し寿永山妙法寺と改称。開基以来当地の領主戸川家の祈願所となりあつい保護をうけ、正徳元年(一七一一)には三代安貞自筆の陀羅尼品一巻および鬼子母神木像一体が寄進された(早島町史)


妙法寺
みようほうじ

[現在地名]福山市南町

福徳さいわい町の南端東部にある。本性山と号し、日蓮宗。本尊十界大曼陀羅。水呑みのみ村の刀工法華一乗兄弟が日蓮宗に帰依、弟本性が野上のがみ村に一宇を建立したのに始まり、福山城下成立時に、当時の住職日意が水野勝成に願出て寺地を得、現在地に移建したという。「備陽六郡志」に「宗休公眺望し給ひて日意に被仰けるは、城下より連なる田の中に寺を建立せらるることよ、町近所の向寄能地を望まれよかしと有ければ、今こそ田の中にて候へ、御城下日を追て繁栄し候へハ、年を不経、市家建続候半事必定に御座候と被申けれハ甚御悦喜有けるとそ」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「妙法寺」の意味・わかりやすい解説

妙法寺 (みょうほうじ)

東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗の寺。山号は日円山。創建は不詳だが,もと真言宗に属していたといい,元和年間(1615-24)妙仙院日円が日蓮宗に改めた。江戸時代から〈堀ノ内のお祖師様〉の名で親しまれている。祖師堂に安置する日蓮の等身大の木像は,日蓮が42歳のときに伊豆法難を乗り越えたおり,みずから開眼したと伝え,〈厄よけの祖師〉として広く信仰を集めた。10月13日を中心に行われる日蓮忌にあたる〈お会式〉は,池上本門寺についで盛んである。当寺から出される治病のお守は,〈柱守〉といって有名である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙法寺」の意味・わかりやすい解説

妙法寺
みょうほうじ

東京都杉並区堀ノ内にある日蓮(にちれん)宗の寺。日円(にちえん)山と号し、「堀の内お祖師様」とよばれている。本尊は十界互具曼荼羅(じっかいごぐまんだら)。除厄祖師像がある。元和(げんな)年間(1615~24)の創立で、真言(しんごん)宗の尼寺であったが、日円尼の法華(ほっけ)信仰によりその子日逕(にっけい)の代(1621)に改宗。その後、不受不施(ふじゅふせ)派の碑文谷(ひもんや)(目黒区)法華寺の末寺となり、弾圧と同時に1692年(元禄5)法華寺の祖師像を移して以来、近郷の信者が多く集まるようになったという。1931年(昭和6)の大火で全山焼失。その後再建された。境内には国の重要文化財の鉄門(1878年イギリスのコンドルの設計)、都重要文化財の客殿、庫裡(くり)「御成(おな)りの間」などがある。

[田村晃祐]

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デジタル大辞泉プラス 「妙法寺」の解説

妙法寺〔東京都〕

東京都杉並区堀ノ内にある寺院。日蓮宗。山号は日円山。真言宗の尼寺として創建。元和年間(1615~1624)、日逕の代に改宗。厄除けで知られ、江戸時代には“堀之内のおそっさま(お祖師さま)”として多くの参詣者を集めた。英国人コンドルの設計による鉄門は国の重要文化財に指定。

妙法寺〔神奈川県〕

神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。日蓮が開山し、1357年、日叡が再興したと伝わる。苔に覆われた石段で知られ、苔寺とも呼ばれる。

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事典・日本の観光資源 「妙法寺」の解説

妙法寺

(東京都杉並区)
杉並百景」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の妙法寺の言及

【和島[村]】より

…中央部を島崎川が貫流し,これに沿ってJR越後線,国道116号線が通じる。1307年(徳治2)日蓮の高弟日昭を開基とする妙法寺が建立され,北越布教の中心地となった。近世には,島崎川改修により新潟~柏崎間の物資輸送の要路として栄えた。…

【契沖】より

…幼時から記憶力に優れ5歳のとき母の教えた百人一首を暗記したという。11歳のとき大坂今里の妙法寺に入り丯定(かいじよう)の弟子となり,13歳で高野山東宝院の快賢について仏道修行し,阿闍梨(あじやり)位を得て大坂生玉の曼陀羅院の住持となった。この間に下河辺長流の知遇を得たが,やがて27歳のころ放浪の旅に出て長谷から室生山に至って死を決意し,岩頭に頭を打ちつけたが果たさなかった。…

【御会式】より

…御影供(みえいく),御影講(みえいこう)ともいうが,とくに〈御命講(おめいこう)〉(大御影供がなまってオメイクとなる)と称して,弘法大師忌の御影供と区別している。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と,杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式はもっとも盛んである。本門寺の御会式(10月11日から3日間)には,夜,花で飾った万灯を押し立て,団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし,題目を唱えた信者が群参する。…

※「妙法寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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