浅水村(読み)あさみずむら

日本歴史地名大系 「浅水村」の解説

浅水村
あさみずむら

[現在地名]五戸町浅水

五戸村の南西浅水川上流の山間地に位置する。東は扇田おうぎた村、西は又重またしげ(現倉石村)、南西は手倉橋てぐらばし村、南東は八戸藩領剣吉けんよし(現名川町)、南は三戸通相内あいない村・沖田面おきたおもて(現南部町)、北は石沢いしざわ村・中市なかいち(現倉石村)に接する。

永禄一〇年(一五六七)頃と推定される七月二一日付の根城南部氏宛南部晴政書状(遠野南部文書)に「昨日浅水へ打立仕候へ共」とある。戦国時代より三戸南部氏の支配下に入り、浅水城には一族の南氏が在城していた。南氏は二二代南部政康の三男遠江守長義を祖とし、当地を知行して浅水氏を名乗ったが、三戸城(現三戸町)の南に屋敷があったので南殿と称されたという(奥南旧指録)。天正―文禄(一五七三―九六)の頃には南慶儀(弾正少弼)が当地に居住していたことが知られ、天正一五―一七年頃と推定される八月八日付南慶儀書状案(遠野南部文書)に「自浅水南義」とある。同じく六月一日付の南慶儀書状案(同文書)には「三戸ニハ津軽之時宜余儀にハ不被存候へとも」とみえ、津軽氏独立の動きに対して同氏は根城南部氏と密接な連絡を取りあっている。


浅水村
あそうずむら

[現在地名]福井市浅水町・真木まき

北の福井平野と南の武生盆地との境界付近、東の文殊もんじゆ山系と西のきようヶ岳とに挟まれた狭隘部に位置し、浅水川とその東側を走る北陸街道に沿う交通の要衝であった。「延喜式」(兵部省)の「越前国駅馬」に「朝津」があり、「和名抄」では丹生郡に朝津あそうづ郷がみえ、古代は丹生郡に属したものか。南北朝時代、暦応二年(一三三九)一二月日付得江頼員軍忠状(得江文書)に、同年九月一五日「押寄浅宇津之処、蕗野寺城並ニ岡城凶徒等懸出之間、致合戦」と記す。


浅水村
あそうずむら

[現在地名]三重町浅瀬あさせ 浅水

宇対瀬うたいぜ村の南、北東流する又井またい川の流域にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には浅水村分と深野ふかの村・宮尾みやお村を一括した一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に浅水村とみえ、高二八一石余、下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一三四石余・畑方一四七石余、日損所と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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