日本歴史地名大系 「浜崎浦」の解説 浜崎浦はまさきうら 山口県:萩市萩城下浜崎浦[現在地名]萩市大字東浜崎町(ひがしはまさきまち) 浜崎浦・菊(きく)ヶ浜(はま)、大字今魚店町(いまうおのたなまち) 菊ヶ浜、大字堀内(ほりうち) 菊ヶ浜浦町は猟人(りようど)町・漁人(りようど)町ともいい、松本(まつもと)川河口西岸近くに位置し、東は新堀(しんぼり)川を隔てて川島(かわしま)庄土原(ひじわら)、西と南は浜崎町に接する。北に萩藩御船倉がある。そのほか浜崎町の南、古萩(ふるはぎ)町境と菊ヶ浜に飛地があった。浜崎浦は城下町の一であったが浜崎宰判に属し、上組・下組に分れ、浦庄屋一人、畔頭が二人いた。幕末の「郡中大略」によると当浦の総石高は八六石一斗六升一合、うち海上石六五石三斗六升八合、戸数一三一軒、人口四六三人(男二五五人、女二〇八人)、漁船一一艘、網船八艘、酒屋二軒、米蔵一ヵ所、番屋一軒があった。 浜崎浦はまさきうら 福岡県:福岡市西区今津村浜崎浦[現在地名]西区今津今津(いまづ)村に設定された浦分。元禄国絵図には今津村の内として浜崎村が記される。浜崎浦の集落は今津浦の東、浜崎山の南麓に位置し、東は今津湾、西は同湾の入海に面する。南側対岸の横浜(よこはま)まで渡船が出ていた(続風土記拾遺)。集落の東から南へ延びる砂洲が波止の機能を果した。宝永二年(一七〇五)には弁指(浦庄屋)がいた(福岡藩御用帳)。享保二年(一七一七)には廻船一〇艘(二二端帆九・一五端帆一)・漁船六艘があった(「志摩郡村々田畠畝高帳」鎌田家文書)。宝暦二年(一七五二)に浜崎浦青木善右衛門船がルソンに漂着した。この事件によって同人親類筋の家は廻船業を禁じられ、浜崎浦の廻船業は中絶した(筑前海事史の研究)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by