浜野政随 (はまのまさゆき)
生没年:1696-1769(元禄9-明和6)
江戸の装剣金工。通称太郎兵衛。乙柳軒,味墨,閑径,驪風堂,遊壺亭,龝蜂斎,半圭子,子須など多くの号がある。奈良派の名工,利寿(としなが)に師事して業を修め(奈良利寿),浜野派を興し,横谷派,奈良派とともに町彫の一大勢力を形成した。作品は縁頭(ふちがしら)が最も多く,小柄(こづか),目貫(めぬき),鐔(つば)などもみる。初期には師利寿の奈良派の作風を示し,小模様で薄肉の穏健なものであったが,後には図柄が大きく高彫で総体に豪放なものとなって,浜野派独得の作風を樹立した。彼自身,奈良三作につぐ名工であるが,一門では2代兼随(かねゆき),矩随(のりゆき)がすぐれ,矩随門に直随,その門に岩間政盧(まさよし)が出るなど,一門,分派ともおおいに栄えた。
→刀装
執筆者:原田 一敏
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浜野政随(初代)
没年:明和6(1769)
生年:元禄9(1696)
江戸中期の装剣金工家。江戸神田竪大工町に住む。通称は太郎兵衛。乙柳軒,味墨,閑径,驪風堂,子須,遊壺亭,龝蜂斎,半圭子,一瞬庵など多くの号銘がある。奈良派一門の名工利寿に学んだ浜野派の開祖で,横谷派,奈良派と並ぶ町彫りの一家を成した。作品は師と同様,縁頭 が多く小柄,目貫,鐔は少ない。素材には鉄地のほか,素銅,朧銀,真鍮などもある。作風は初期の奈良派風の小模様を薄肉に表す穏雅なものから,大模様を高肉に表す力強いものへと移ってゆき,多様な図柄を写生的に表すようになり,独特の境地を開拓した。「葦に鷺図鐔」(個人蔵)は代表作のひとつであるが,この葦に鷺の画題は晩年に好んで用いている。また,和漢の故事にも通じ,古典を題材にしたものも多い。奈良三作(利寿,杉浦乗意,土屋安親)に次ぐ存在で,一門には兼随や矩随をはじめ矩随門下の直随,その門下岩間政盧らすぐれた人材を輩出した。
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浜野政随
はまのしょうずい
[生]元禄9(1696)
[没]明和6(1769).10.26. 江戸
江戸時代の彫金家。装剣金工浜野派の祖。通称は太郎兵衛,号は閑径,乙柳軒,半圭子など。奈良利寿 (としなが) の門人で,初作の閑径銘時代は奈良風の小模様の穏やかな作品が多いが,のち大高肉彫で模様も大柄なものに変化し一派を立てた。浜野派は5代まで続き,2代矩随 (のりゆき) らの名工が出た。
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浜野政随(初代) はまの-まさゆき
1696-1769 江戸時代中期の装剣金工。
元禄(げんろく)9年生まれ。奈良派の奈良利寿(としなが)にまなび,浜野派をたてる。作品は縁頭(ふちがしら)がおおく,高彫り色絵で写生画などをほった。江戸神田竪大工(たてだいく)町にすみ,門下に2代浜野政随,初代浜野矩随(のりゆき)らがいる。明和6年10月26日死去。74歳。通称は太郎兵衛。号は乙柳軒,味墨,閑径など。
浜野政随(2代) はまの-まさゆき
1740-1776 江戸時代中期の装剣金工。
元文5年生まれ。初代浜野政随の次男。兄政実が宝暦7年に早世したので,2代をついだ。安永5年6月死去。37歳。江戸出身。前名は兼随(かねゆき)。通称は太郎兵衛。号は開眼子,味墨など。
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世界大百科事典(旧版)内の浜野政随の言及
【ケラチン】より
…羊毛ケラチンは5.15Åの周期構造をもつαケラチンであるが,伸長すると6.64Åのβケラチンに変化し,この転移は可逆的である。なお,パーマネントウェーブはチオグリコール酸のような還元剤でポリペプチド鎖間のS-S結合を切断しておいて毛髪を望む形に整え,ついで過酸化水素液のような酸化剤によって再び結合を形成させて髪形を半永久的に固定するものである。【宝谷 紘一】。…
※「浜野政随」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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