浮田庄(読み)うきたのしよう

日本歴史地名大系 「浮田庄」の解説

浮田庄
うきたのしよう

現浮田・生目いきめ小松こまつ跡江あとえを中心とする地域にあった庄園。

〔庄の成立〕

宇佐大鏡によれば、天喜五年(一〇五七)に国司菅野政義が国衙の責任で豊前宇佐宮に納入すべき封物の一部、封民三四人相当の代替として宮崎郡内の地を区画し宇佐宮に寄進して成立した。この時点での国衙・宇佐宮双方への貢納関係は不詳であるが、日向宇佐宮領全体が保延年間(一一三五―四一)には不輸化されているので、これ以降は一円宇佐宮領とみてよい。なお大鏡は荒野を寄進し開発したとするが、現実には既存耕地を含む再開発であったと考えられる。安元二年(一一七六)二月日の二通の八幡宇佐宮符写(奈多八幡縁起私記)によると、六年に一度の宇佐宮行幸会の執行に必要な綾御船の水手のうち一人を柏原かしわばる大墓おおつか両別符と共同で勤め、また行幸会料の雑物として単独で御服綿二屯・茜五斤など九品目の貢納を宇佐宮から請求されている。水田面積は宇佐大鏡に引用された長承年間(一一三二―三五)目録によれば定田一三一町八段一〇代、建久図田帳では国衙側の把握していた田代は三〇〇町、宇佐大鏡編纂時点で宇佐宮側が把握していた起請定田の田数は一一二町であった。平安時代末期、当庄へは行幸会料のほかに起請定田一一二町に対して所当例済物として重色米二二四石・軽色布二二四疋・田率綿八四両および例別進上品長絹二疋が賦課され、また放生会料として斑幔二〇帖・上筵二〇枚・次布五反・凡絹三〇疋・相撲五人・駒二疋・万灯会料油二斗五升・凡絹などが賦課されていた(宇佐大鏡)

当庄の範囲は、元応二年(一三二〇)一〇月一〇日の某置文案(「伺事記録」裏文書)では庄内の「こまつかた」(小松方)と「いくめかた」(生目方)が対比されており、また建武三年(一三三六)二月七日の土持宣栄軍忠状(旧記雑録)には「浮田庄跡江方」がみえ、鎌倉時代末期には庄内に生目方と小松方と跡江方があった。また嘉保二年(一〇九五)五月一日の宇佐大宮司下文(宇佐大鏡)によれば、大宮司宇佐公順は紀弘任の申請に基づいて当庄内の柏原牟田を四至を限って別符とし、開発することを許可しており、このとき柏原別符が浮田庄から分出した。宇佐大鏡は長峯ながみね別符・細江ほそえ別符も当庄から分出したものであろうとしている。また大墓別符は前述の宇佐宮行幸会で浮田・柏原・大墓と一括して扱われていることや、鎌倉末期以降にではあるが当庄小松方と共通経路で伝来するようになることからみて、同様に当庄から分出したか、当庄に付随して一円神領化した可能性があり、その場合生野うりゆうの別符も同様に推定しうる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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