日本歴史地名大系 「浮田庄」の解説
浮田庄
うきたのしよう
現浮田・
〔庄の成立〕
宇佐大鏡によれば、天喜五年(一〇五七)に国司菅野政義が国衙の責任で豊前宇佐宮に納入すべき封物の一部、封民三四人相当の代替として宮崎郡内の地を区画し宇佐宮に寄進して成立した。この時点での国衙・宇佐宮双方への貢納関係は不詳であるが、日向宇佐宮領全体が保延年間(一一三五―四一)には不輸化されているので、これ以降は一円宇佐宮領とみてよい。なお大鏡は荒野を寄進し開発したとするが、現実には既存耕地を含む再開発であったと考えられる。安元二年(一一七六)二月日の二通の八幡宇佐宮符写(奈多八幡縁起私記)によると、六年に一度の宇佐宮行幸会の執行に必要な綾御船の水手のうち一人を
当庄の範囲は、元応二年(一三二〇)一〇月一〇日の某置文案(「伺事記録」裏文書)では庄内の「こまつかた」(小松方)と「いくめかた」(生目方)が対比されており、また建武三年(一三三六)二月七日の土持宣栄軍忠状(旧記雑録)には「浮田庄跡江方」がみえ、鎌倉時代末期には庄内に生目方と小松方と跡江方があった。また嘉保二年(一〇九五)五月一日の宇佐大宮司下文(宇佐大鏡)によれば、大宮司宇佐公順は紀弘任の申請に基づいて当庄内の柏原牟田を四至を限って別符とし、開発することを許可しており、このとき柏原別符が浮田庄から分出した。宇佐大鏡は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報