日本歴史地名大系 「海東郷」の解説
海東郷
かいとうごう
現小川町の東部、
当郷を歴史上著名にしたのは、建治元年(一二七五)一〇月肥後国御家人竹崎季長が鎌倉に出向き苦労の末、当郷地頭職を文永の役の恩賞として与えられ、翌年一月入部し(蒙古襲来絵詞)、その経営の実をあげたからである。季長以前は甲佐社領として北条氏が地頭職を有していたと思われ、季長の権限もこれを継承するものであったろう。その後ももちろん甲佐社領であり、阿蘇本末社領預所としての北条氏の支配は依然存続したはずである。季長支配下の同郷の実状は、正応六年(一二九三)の二通の竹崎季長置文によって知られる(一通は同年一月二三日の「置文」秋岡氏所蔵文書、もう一通は同日付ながら正和三年一月一六日に書改められた「置文」塔福寺文書である)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報