改訂新版 世界大百科事典 「淡輪氏」の意味・わかりやすい解説
淡輪氏 (たんなわうじ)
和泉国淡輪荘(現,大阪府泉南郡岬町淡輪付近)の豪族。〈たんのわうじ〉ともいう。鎌倉初期淡輪荘の下司職を源頼朝に認められた橘兼重が年貢を抑留して荘園領主と争い,領家九条良平は1234年(文暦1)兼重が地頭と称することを禁止。さらに橘重基(淡輪氏を称す)も勢力の拡大をはかって荘園領主と衝突し公文職を解任された。1333年(元弘3)淡輪正円は足利尊氏に属し,重氏は36年(延元1・建武3)の尊氏の東上戦に活躍。48年(正平3・貞和4)には室町幕府より和泉国泉南郡の兵粮所が淡輪氏へ預け置かれた。淡輪助重は高師泰に属し48年四条畷(しじようなわて)の合戦を戦ったが,高師直派の失脚後,宮方の勧誘に従って楠木正儀と結び,両軍角逐の地和泉で本領の維持に成功。その後和泉半守護細川氏に属した。強い中央権力の膝下たる和泉において淡輪氏の領主的発展は阻まれ,淡輪氏は強者の保護を受け入れざるをえなかったのである。天正初年には織田信長に属し,水軍を有する淡輪氏は1576年(天正4)木津川口で毛利水軍と戦い,さらに九鬼水軍と協同して紀州雑賀党攻撃にも参加している。信長の死後豊臣秀吉に従い,淡輪徹斎は娘を豊臣秀次の側室としたが,秀次の失脚に連座して所領を没収され,また徹斎の次男重政は1615年(元和1)大坂夏の陣で大坂方として樫井で戦死したという。なお庶流は本山氏を称し徳川家に仕えた。
執筆者:青山 幹哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報