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(小森正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
南北朝時代の武将。生没年不詳。正成の子,正行の弟。正行の討死後楠木氏の棟梁となり,南朝の軍事力の中心となった。正平一統ののち,1352年(正平7・文和1)京都に進軍,その後も幕府内部の分裂の間に翌年には再度京都に進軍し,摂津方面でも勢力を保った。しかし69年足利義満に降伏,幕府は正儀を河内および摂津住吉郡の守護に任じた。ついで73年(文中2・応安6)には河内金剛寺に南朝長慶天皇を攻撃した。正儀は一方では北朝との講和をすすめていたが,後村上天皇,足利義詮の死によって講和交渉が挫折し,主戦論者の長慶天皇の即位,管領細川頼之の説得等により北朝に下ったものと考えられる。しかし細川頼之が失脚したのち82年(弘和2・永徳2)に正儀は南朝方に復帰,南朝方の河内・和泉守に任じられた。晩年の消息は未詳。正儀の後は,楠木氏には顕著な行動はなくなった。
執筆者:熱田 公
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生没年不詳。南北朝時代の武将。正成(まさしげ)の三男。河内守(かわちのかみ)。1348年(正平3・貞和4)四條畷(しじょうなわて)で正行(まさつら)が自刃したのち、楠木一族の棟梁(とうりょう)として畿内(きない)各地を転戦した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)による幕府権力の内訌(ないこう)をついて、51年(正平6・観応2)以後たびたび京都を攻撃した。67年(正平22・貞治6)南北両朝の和平交渉に際して斡旋(あっせん)に努めたが失敗した。69年(正平24・応安2)細川頼之(よりゆき)の求めに応じて幕府方に走ったため、支族である和田(にぎた、あるいは、みきた)氏、橋本氏と対立し、一族間で流血の惨事を招いた。82年(弘和2・永徳2)閏(うるう)1月ふたたび南朝方に転じたが、以後の詳細は不明である。
[佐藤和彦]
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…36年(延元1∥建武3)室町幕府が開創されると,初代の守護に畠山国清が命ぜられるが,当国は南朝方の重要な戦略地であり,南北朝争乱の過程で軍事指揮の責任を問われ,守護はその後もしばしば更迭された。観応の擾乱(じようらん)以後は概して細川氏が多く守護に就任したが,69年(正平24∥応安2)南朝の河内・和泉国主楠木正儀(まさのり)が幕府に帰参するや,北朝は彼に国主の地位を認めたまま,新たに守護に任ずる特殊な措置を講じた。しかし正儀も78年(天授4∥永和4)南朝方の橋本正督の蜂起で更迭され,新たに山名氏清が守護を襲職した。…
…67年義詮の死去に際し,幼少の義満の補佐を託され,管領に任ぜられ,これまで足利氏の家宰的性格しか与えられていなかった執事職を管領という幕府政治の中枢的な職に高め,幕政を左右した。69年(正平24∥応安2)南朝方にあって講和を主張し孤立していた楠木正儀を誘降し,河内,和泉の守護職を与えて南朝勢力の切り崩しをはかった。こうした頼之の積極的な南朝攻勢に対し,これを非難する空気が諸大名の間に生まれ,71年(建徳2∥応安4)には楠木正儀の河内攻略に諸大名が協力しないことを理由に管領職を辞して西芳寺に隠遁しようとしたため,義満がみずから西芳寺に赴いて慰留するという事態にまでなった。…
※「楠木正儀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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