深浦湊(読み)ふかうらみなと

日本歴史地名大系 「深浦湊」の解説

深浦湊
ふかうらみなと

[現在地名]深浦町深浦

津軽の日本海側で最も南に位置し、古くから蝦夷地と日本海岸・瀬戸内海方面とを結ぶ北国海運の寄港地。江戸時代は松前航路と下北航路の分岐点でもあり、風待湊と木材を上方へ積出す港として明治末まで栄えた。正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図に「此間口百五拾四間 深サ八尋九尋 是より松前へ弐拾五里同秋田領渡鹿三拾五里但西南風舟かかり吉北風悪し」とある。

「日本書紀」斉明天皇四年四月条に「阿倍臣率船師一百八十艘、伐蝦夷(中略)定渟代・津軽、二郡々領、遂於有間浜、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而帰」とみえる。有間浜ありまのはま十三じゆうさん(現北津軽郡市浦村)付近が妥当とされるが、小泊こどまり(現北津軽郡小泊村)付近・善知鳥うとう(現青森市)付近のほかに深浦の吾妻あづま浜に比定する説がある。中世では安東氏十三とさ湊を根拠地として、日本海上で活躍した。文明年間(一四六九―八七)のものとされる廻船式目には深浦湊は入っていないが、天然の良港で寄港地として重要であったことは、円覚えんかく寺薬師堂の厨子の存在、港の周辺に次のような館跡が存在することからも推定できる。吾妻館跡は吾妻川河畔にあり(津軽諸城の研究)、館跡付近の六将ろくしよう(所)の森(現吾妻沢)に安東氏関係のものと思われる板碑が三基確認される。尾上山おのえやまに深浦尾上山大館跡があり、蝦夷館でとくに安東氏に利用されたと思われる。岡町おかまち無為むい館跡がある。元深浦もとふかうらにある深浦館跡は、中山なかやま峠越の岩崎いわさき街道を眼下に、北へ延びる舌状台地を利用したもので、東に六角ろつかく沢、西にぼうノ沢がある要害の地にある。安東氏・葛西頼清・千葉弾正へと館主が替わったという(津軽諸城の研究)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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