深浦村(読み)ふかうらむら

日本歴史地名大系 「深浦村」の解説

深浦村
ふかうらむら

[現在地名]深浦町深浦

北と西は日本海に面し、海岸に沿った道路により、北東は広戸ひろと村、南西は横磯よこいそ村に通じる。山の中を通る道もあり、中山なかやま峠を経て南へ約八キロ余で岩崎いわさき(現岩崎村)へ達する。集落は深浦湾の周辺と段丘上(現岡町)に発達し、隣村などへ行くには湾岸沿いよりは御仮屋のある段丘上の道のほうが多く利用された。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「吹浦ふかうら近代深浦ト書ク」とみえる。そのほかに安東浦(藤崎系図)、西浦(大日本地名辞書)、海浦(深浦沿革誌)ともいう。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に深浦村として三九一・九八石、うち田方三五八・三三石とある。天和三年(一六八三)の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)に深浦村・深浦村新田・深浦間口地子新田と村名がみえる。貞享四年(一六八七)検地帳によれば深浦町とあり、田畑屋敷合せて六六町一反一歩、村高四四六・九六六石、うち田方四八町三畝四歩で三七五・三八四石、上田から下々田まで設定され、下田が一八町二反四畝一八歩、一四五・九六八石、下々田一八町六反三畝五歩、一一一・七九石とあり、畑方一八町六畝二七歩で七一・五八二石、上畑から下々畑まで設定され、下畑が四町九畝一二歩、一二・二八二石、下々畑六町七反九畝一九歩、六・七九六石とみえ、屋敷が五町五反二畝二九歩あり、そのうち四畝四歩の郷蔵屋敷がある。


深浦村
ふかうらむら

[現在地名]小木町深浦

小木半島の先端部、深浦のとよばれる入江にある。北西は沢崎さわさき村、南は犬神平いぬかみだいら村。弘安八年(一二八五)六月一日の佐渡守護北条宣時下知状(河崎村史料編年志)に「宿禰宜内強清水・深浦」とみえるが、同史料は検討を要する。

元禄七年(一六九四)の検地帳(深浦区有)では畑地のみ六町一反余。屋敷持は二二筆で地字浜・谷・河はたにある。耕地には小木町の百姓の入作がある。「佐州巡村記」では戸口は一九軒・九五人。浦目付所が置かれている。「佐渡四民風俗」に「澗有之船四五十艘掛り申候」と記し、特殊な風俗として「猟船乗出の節毎日其刻限には船支度仕汀之下し互に相図の声を掛け、一拍子に乗出し其後は櫓械の働次第に其場所え至り猟致し候由、如此風俗は此辺に限り候旨及承候」とある。


深浦村
ふかうらむら

[現在地名]中島町深浦

七尾湾西海岸に北面し、細長い入江を取囲む村。東は台地を隔てて長浦ながうら村。貞応三年(一二二四)一〇月一日の熊来庄立券文写(尾沢文書)に「深浦」とみえ、定在家として光永・国重の二宇、塩釜一口があった。戦国後期頃には馬淵彦二郎が深浦を知行分としていた(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)

初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高七八俵余が土方領、うち約五割七分は百姓得分。


深浦村
ふかうらむら

[現在地名]大牟田市みさき

深倉ふかくら村の北にあり、甘木あまぎ丘陵の南西麓に当たる。内海に臨む海浜村落。建長二年(一二五〇)一〇月二三日、上総国の御家人深堀左衛門尉能仲は承久の乱での勲功で得た所領の替地として「筑後国甘木村東西」および「深浦村」地頭職に補任された(「将軍藤原頼嗣袖判下文」深堀文書/鎌倉遺文一〇)。戦国期には三池氏領となり、天文一九年(一五五〇)頃のものと推定される年月日欠の三池氏等知行坪付(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に「三池殿持分」として「ふか浦」一三町がみえる。天正七年(一五七九)以降龍造寺隆信に帰順した田尻鑑種の自最前至鎮並申合候村付(田尻家譜/大和町史資料編)に「鎮実覚護之内、可遂御詫言在所事」として深浦一三町があげられており、同七年三月の三池鎮実攻略の後、その戦功により田尻鑑種が獲得したとみられる。


深浦村
ふかうらむら

[現在地名]宿毛市小深浦こぶかうら

小深浦村ともいい(元禄地払帳)新城しんじよう山の南麓、にしき村の西にある。宿毛郷一村宿毛街道が通る。「土佐州郡志」は「縦横十町、戸凡二十余、松尾坂通路」と記し、「阿合島、古海也、今為田」「煮潮処、海浜有四処」とあって、南面する宿毛湾の干拓と塩浜の存在を記す。

村名は天正一八年(一五九〇)の宿毛西分地検帳に「小深浦村」とみえ、検地面積五町七反余で大半は「御直分」。屋敷数一四うち居屋敷五。江戸時代の当村は元禄地払帳では地高総計三九九石余、本田高九七石余は山内源蔵(宿毛山内氏)の知行、新田高三〇二石余のうち貢物地五石余、残りのうち一九六石余は山内源蔵の役知、あとは宿毛大庄屋給。


深浦村
ふかうらむら

[現在地名]有明町大字深浦

塩田川の河口にあり、有明海に面する。正保絵図に村名がみえる。

干拓によってできた村で、鎌倉時代は日向通益(のちの白石氏)の所領。室町時代に入って須古すこ城主平井氏の所領に代わり、江戸時代には佐賀藩領となった。享保二年(一七一七)には洪水があり、翌三年は旱魃、同五年は不作年、同一三年は大洪水と続き、享保の大飢饉となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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