( 1 )清涼殿西庇の御厨子所で、食物等を納め置いた棚からの名称というが、逆に厨子を常置した部屋で御厨子所と名が付いた可能性もあり、断言できない。厨子の別名を「竪櫃」と称しているところから考えると、櫃の蓋が横になるようにした形の扉付きの箱が、厨子の原義と思われる。
( 2 )縦長にした場合には、仏像安置のためによく使われるが、普通は横長の形で食物などの収納棚に使用する。
仏像,仏画,舎利,経典などを安置するいれもので,古くは仏龕(ぶつがん)から発展してきたもの。中国の厨房の調度品を納める容器に似て,その形やしかけを応用して発展したものと考えられる。厨子の形式はいろいろであるが,一般的には正面に両開きの扉を設け,屋根と台座のある独立した施設である。しかし,奈良時代には仏堂を小さくしたような形の厨子を宮殿(くうでん)と呼び,仏画を掛け置く台を仏台,経巻書籍などを納入しておく箱形のものを厨子と呼んでいた。のち厨子はさまざまな形に発展し,その形式から宮殿形厨子,春日形厨子,禅宗様(唐様)厨子,折衷様厨子,箱形厨子,木瓜(もつこう)形厨子,携行用厨子,棚厨子に分類されている。宮殿形厨子に禅宗様,折衷様の厨子を加えたものが,一般に寺院の本尊をはじめとするおもだった仏像を安置する厨子として多く用いられている。
執筆者:木下 密運
天平勝宝8年(756)6月21日の《東大寺献物帳》に記載される赤漆文欟木厨子(せきしつぶんかんぼくずし)は,光明皇后自筆の《楽毅論》をはじめ笏や犀角盃(さいかくのさかずき)などを納め,また天平勝宝年間(749-757)に製作された東大寺大仏殿安置の六宗厨子は,内部の棚に経論や雑具を置いていたと記録されている。正倉院には赤漆文欟木厨子のほか,同様に観音開き扉を具した柿厨子,観音開き扉を表裏両面に具した黒柿両面厨子がある。いずれも中に1段の棚を設けた横長の箱形厨子であり,奈良時代の厨子の典型であったと想定される。正倉院以外の同形遺品では,法隆寺に伝来した東京国立博物館の竹厨子が名高い。
一方,正倉院には,このような置戸棚風の箱形厨子のほか,後世の本棚のように天板や棚板に柱材を貫通して楔(くさび)で固定した棚厨子と呼ばれる形式のものも伝わっており,奈良時代には2様の厨子のあったことが知られる。この両者が組み合わさって平安時代には室内調度としての漆塗り二階厨子が生まれ,厨子棚をいっそう美しくしつらえた二階棚に発展するにいたったと考えられる。もちろん簡素な棚厨子が消滅したわけではない。《慕帰絵詞》に代表されるように中世の絵巻物には,厨房道具の整理棚として台所場面にこの種の厨子が散見され,後世まで流行したことがしのばれる。
宮殿形厨子では仏像を奉安した法隆寺の《玉虫厨子》が飛鳥時代に比定され現存最古,それにつぐのが同寺の橘夫人念持仏厨子である。平安時代の遺品は絶無の状態であるが,鎌倉時代のものではやはり法隆寺の聖徳太子孝養像安置厨子が,吹抜けの宮殿形に古様をとどめている。以後の仏像安置厨子は,本尊厨子として仏殿内陣につくりつけとなった宮殿形式のものが多くなるが,小彫像の類にはその保護を意図して,小型の宮殿形や入角(いりずみ)箱形の木瓜形厨子もつくられるようになり,なお多くの遺品を伝えている。仏画奉懸厨子としては,扁平な六角宮殿形を呈する奈良当麻(たいま)寺本堂の当麻曼荼羅奉懸厨子が平安初期を降らぬ事例で,厨子の遺品としては最大の規模である。この形式のものが寺院の法会・儀式などの際,本尊画像奉懸の具として平安時代からの文献に多出するようになる仏台に当たるものであろう。
内部に経典類を納める納経厨子の奈良時代における確たる遺品は知られないが,先述した東京国立博物館の竹厨子が,761年(天平宝字5)の《法隆寺東院縁起資財帳》に記載のある法華経など20巻を納置した斑竹(まだらだけ)厨子2基のうちの一つに当たるとされる。しかし文献には780年(宝亀11)の《西大寺資財流記帳》に木製漆塗りの経厨子がいくつかみられ,その表面には更に雑丹で彩色したり,平文(ひようもん)板法(金属の薄板を文様に切り,漆面に貼りつけたのち,再び漆を塗って研ぎ出したり,文様部分の漆をはぎおこしたりしたもの)をほどこしたものが使用されている。また雑玉で飾ったものもつくられた。奈良時代の文献にみられる納経厨子は,記載の法量によるかぎりいずれも横長の長方形をなしており,雑物を収納したとみられる正倉院の柿厨子や黒柿両面厨子に通ずるものがある。したがって,材料はもちろん外部装飾も多様で,納経厨子としての特別な形式はなかったと考えられる。納経厨子がようやく独自の形式を備えるようになるのは,鎌倉時代からである。1243年(寛元1)の寄進願文を刻した根津美術館の大般若経厨子や,1495年(明応4)東大寺に寄進されたことが納置経の奥書によって知られる東大寺図書館の大般若経厨子が,その代表的事例である。いずれも俗に春日形厨子と称する観音開き扉つきの宮殿形厨子の一種で,以後この形式が納経厨子の主流をなす。なお異形式の遺品としては文化庁保管の大般若経厨子(京都神光院旧蔵)が,経塚埋納の経筒に似た,屋蓋つきの円筒形をなしていて注目される。
厨子の類で遺品の多いのは,内部に舎利容器を奉安する舎利厨子である。これも古くは宝形造四方吹抜け式の宮殿形につくられたが,鎌倉時代からは扉を具備するのが通例となり,同時代末から室町時代には,舎利信仰(舎利)の隆盛に促され,金銅製舎利容器を内壁に装着した量産式の,嵌装舎利厨子(がんそうしやりずし)を数多く出現させることになる。
→仏壇
執筆者:河田 貞
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室内に置き、書物、文房具、遊戯具、化粧品などの身の回り品を収納し、また室内装飾をも果たす調度品である。起源をたどると、中国から入ったもので、厨房(ちゅうぼう)(台所)で使用する調度品の容器をいった。この系統のものは、正倉院の棚厨子が奈良時代の遺例で、後世の本棚のように天板と棚を2段渡しただけの簡単な形のもので、このような形状の棚は、『信貴山(しぎさん)縁起』『粉河寺(こかわでら)縁起』『石山寺縁起』『慕帰絵詞(ぼきえことば)』の中世絵巻物の台所の場面に登場して、食物や食器などをのせている。
室内装飾を兼ねて調度として、身の回りの品々を整理し収納するのに、天武(てんむ)天皇より聖武(しょうむ)天皇に至る代々の天皇が伝えた愛好品で、孝謙(こうけん)天皇が大仏に献じた正倉院の赤漆文欟木厨子(せきしつのぶんかんぼくのずし)が、代表的な作例としてあげられる。木目の鮮やかなケヤキの板に朱を彩しその上に透明な漆を塗った今日の春慶塗の技法を施し、両開き扉に鏁子(さし)をつけ、下部に牙象(げしょう)の基台を据えるが、内部は2段の棚を設けている。この内容品の詳細は、『東大寺献物帳』によると、『孝経(こうきょう)』『楽毅(がくき)論』『杜家立成(とかりっせい)』などの書物をはじめとして、刀子(とうす)、尺、笏(しゃく)、尺八、犀角盃(さいかくはい)、双六(すごろく)などの日常生活で使用する品々を収納している。正倉院には、このほか柿(かき)厨子、黒柿両面厨子が伝来し、両開き扉付き、牙象の基台といった基本的な構造からなる。
平安時代には、棚厨子が一般庶民間で使用されたことは、それより後世の絵巻物、『絵師草紙』、『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』の居間の場面に登場していることからもわかるが、前者の場合、3階で、上段に巻子(かんす)・巻紙・書状・刷毛(はけ)、中段に黒塗りの箱・白木の箱、下段に木鉢・曲物(まげもの)・水瓶(みずがめ)を置く。後者は2階で上段に巻子・冊子・黒箱、下段に蒔絵(まきえ)の手箱2合が置かれ、それぞれの実生活で使用されるものが配置され、実用的な白木造りからなっている。これに対して、平安貴族の使用した調度の実際を知る『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』には、棚厨子を蒔絵の加飾により美化した二階棚が載る。上段に錦(にしき)の敷物を敷き、その上に火取り・泔坏(ゆするつき)、下段に唾壺(だこ)・打乱(うちみだり)箱を配置している。それに従来の厨子に棚を加えた二階厨子が出現したが、下層の部分が両開き扉付きの厨子で、上層には棚板2段、錦の敷物を敷き、周りに組緒(くみお)を通して、四隅に総角(あげまき)に結び垂飾する。これは2基1組からなり、収納品も一対である。上段に櫛(くし)箱と香壺(こうご)箱、下段に打乱箱を配置する。このように平安貴族の使用する品物が納められるばかりでなく、寝殿造の母屋(おもや)の室内を装飾する調度の役割をもつようになった。
[郷家忠臣]
仏像、経巻、舎利、仏画などを納める仏具。豆子とも書き、あるいは仏龕(ぶつがん)ともよばれる。両扉をつけ、漆や箔(はく)などを塗り装飾したもの。厨房(ちゅうぼう)で使用する調度品が転じて仏教用具を納める両扉の容器に用いられるようになったといわれる。多くは木製で、形は屋形や筒形などがある。その形式はインドの石窟(せっくつ)寺院の龕(がん)に基づくものといわれるが、中国の『広弘明集(こうぐみょうしゅう)』第16には「或(あるい)は十尊五聖は共に一厨に処し、或は大士如来(にょらい)は倶(とも)に一櫃(ひつ)に蔵す」とあるから、すでに梁(りょう)代には尊像を厨子や櫃(ひつ)に安置する制があったことが知られる。
日本の上代の厨子を代表するものとしては、法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)(屋根を錣葺(しころぶ)きにつくった飛鳥(あすか)様式のもの、国宝)と、橘(たちばな)夫人念持仏厨子(異形式の箱屋形屋根をつけた白鳳(はくほう)時代のもの、国宝)があげられ、ともに宣字形の須弥座(しゅみざ)を備えている。また厨子の形式には宮殿形厨子(殿堂形厨子、和様厨子とも)、春日(かすが)形厨子、禅宗様(唐様)厨子、折衷様厨子(和様と禅宗様の混合したもの)、箱形厨子、木瓜(もっこう)形厨子、携行用厨子(懐中用厨子)、棚厨子などがあり、多種多様である。
[佐々木章格]
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…法隆寺献納宝物の《聖徳太子絵伝》(東京国立博物館)は五隻の額装に改修されているが,もとは法隆寺絵殿(えどの)に貼り付けられていた。(2)厨子絵(ずしえ) 屋根や扉をもち,寺院を小型化した厨子は,中に仏像や舎利を納置して屋内に持ち込み,礼拝の対象としたものであり,厨子の内外には,荘厳のため仏画が描かれる。日本における最古の厨子絵は,《玉虫厨子》や橘夫人念持仏厨子(法隆寺。…
…中世以降,寺院内陣が土間から板敷きとなるにつれて木壇が中心となり,とくに須弥山(しゆみせん)をかたどった須弥壇形式の木製仏壇が多くなった。宗団寺院とは別に,在家有力者の間には持仏堂や仏間が中世によくみられ,とくに武士団の惣領家の屋敷周辺には持仏堂が創設され,氏仏とか守護仏と称する仏像を納めた厨子(ずし)を堂内木壇上に安置し,惣領家の司祭権のもとに一族繁栄の祈願や祖先供養が営まれた。厨子は仏像を納める祠殿であり,今日一般に用いる狭義の仏壇はこの厨子型仏壇を指し,これは堂宇と仏壇を兼備した古代寺院のいわばミニチュア版であり,一般民家には近世元禄以降にみられるようになる。…
※「厨子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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