清水湊(読み)しみずみなと

日本歴史地名大系 「清水湊」の解説

清水湊
しみずみなと

ともえ川の河口部に位置した湊。当湊の北、同じ巴川沿いには江尻えじり津・江尻湊と称された古代・中世の良港があった。しかし巴川の河口が土砂の堆積によって南進したことなどから、当地が江尻に替わって発展したものと考えられる。

〔中世〕

天文二三年(一五五四)七月一六日の北条家朱印状(長浜大川文書)によると、今川義元の嫡男氏真と北条氏康の娘との婚儀に際し、北条家が西浦御領所の舟方中に、費用と荷物を伊豆国西にし(現沼津市)の湊から清水まで回漕させており、すでに当地は湊として機能している。永禄元年(一五五八)北条家は新造熊野船で杉材木を当湊から伊豆国網代あじろ(現熱海市)まで回漕させた(同年一一月一日「北条家朱印状写」長浜大川文書)。同三年三月一二日の今川義元判物(寺尾文書)によると、「清水湊」に係留する新船一艘の商業活動に関して訴訟があったらしく、今川氏に奉公していた中間小柳津藤次郎が、今川領国内での湊における商取引に対して、帆役・湊役、出入りの役、櫓手・立使用などの諸役を免除されている。

永禄一一年末から始まる甲斐武田氏の駿河侵攻・支配が進む過程で、同一三年一月二七日武田水軍に編成された海賊衆の土屋木工左衛門尉に宛行われた所領のなかに、清水の屋敷料所分八〇〇文がみえる(「武田信玄判物」早稲田大学荻野研究室所蔵文書)


清水湊
しみずみなと

[現在地名]土佐清水市戎町・元町旭町・中央町・栄町本町・市場町

足摺あしずり半島西海岸の北部、地峡部のくびれたところにある溺れ谷の良港。周囲を一〇〇メートル内外の丘陵に囲まれ、風を避けるのに最適であり、港の入口にある西の尾浦おうら崎、東の遠見とおみ崎から延びる海岸線は北上するにつれて狭まり、次いで東西に広がって清水湊を形成する。「土佐州郡志」に「港 長八町許一町半、港口向南西隅鹿島、港中有小社処、唐船島(中略)浦尻辺此所有揖山大」とあり、「南路志」には「湊 南向、南北八町余、南ノ口弐町、西ノ口弐十間余、深サ十四尋余」とある。また「西巡紀行」(弘化二年)は「裏海凡十八丁、港口広可六十間」と記し、「幡多郡紀行」(安政五年)は「湊口百十五間斗有と云、北に入込事一里斗、奇岩多く洞穴の通りたるもあり、又御舟ばへ、鹿島はへなとも有」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の清水湊の言及

【江尻】より

…武田氏の駿河侵入後,巴川の蛇行を利用して外堀とした江尻城が築かれ,城下町が整えられ城主穴山信君(梅雪)は江尻を起点に興津・蒲原を経て甲州に通じる伝馬制を実施,南甲州から駿河の領国経営の中心とした。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定され,それまで江尻が持っていた湊の機能は巴川河口の南下,駿府城下町の形成と同時に行われた新しい清水湊の建設によって失われ,江尻は以後宿場町となった。江尻宿は志茂・仲・魚町の3町を中心とし,本陣・脇本陣・旅籠屋が集中,問屋場は魚町にあった。…

【清水[市]】より

…北部は興津川上流の山地で,南に三保ノ松原で知られる分岐砂礫嘴(されきし)の三保半島があり,良港清水港を囲む。江尻興津は東海道の宿場町として古くから栄え,清水湊は江戸時代に幕府から種々の特権を与えられて発展,諸国の廻船の出入りが盛んで,多くの廻船問屋が活動した。1899年開港場となり,全国一の茶の輸出港に発展した。…

【駿河国】より

…旧国名。駿州。現在の静岡県の中東部,大井川以東,伊豆半島を除く地域に位置する。
【古代】
 東海道に属する上国(《延喜式》)。国名スルガは,富士川以東の地域にあった〈珠流河国〉の名を継承したものと思われる。珠流河国造と廬原(いおはら)国造の支配領域をあわせて駿河国が形成されるのは7世紀中葉と思われ,680年(天武9)には2郡を割いて伊豆国を分置した。志太(しだ),益頭(津)(ましつ),有度(うと),安倍,廬原,富士,駿河の7郡を有し,当初は中国であったが,奈良時代末の768年(神護景雲2)ころまでには上国に転じた。…

※「清水湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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