日本歴史地名大系 「清水湊」の解説
清水湊
しみずみなと
〔中世〕
天文二三年(一五五四)七月一六日の北条家朱印状(長浜大川文書)によると、今川義元の嫡男氏真と北条氏康の娘との婚儀に際し、北条家が西浦御領所の舟方中に、費用と荷物を伊豆国
永禄一一年末から始まる甲斐武田氏の駿河侵攻・支配が進む過程で、同一三年一月二七日武田水軍に編成された海賊衆の土屋木工左衛門尉に宛行われた所領のなかに、清水の屋敷料所分八〇〇文がみえる(「武田信玄判物」早稲田大学荻野研究室所蔵文書)。
清水湊
しみずみなと
南西隅
、鹿島、港中有
小社
処、唐船島、(中略)在
浦尻辺
此所有
揖山
大」とあり、「南路志」には「湊 南向、南北八町余、南ノ口弐町、西ノ口弐十間余、深サ十四尋余」とある。また「西巡紀行」(弘化二年)は「裏海凡十八丁、港口広可六十間」と記し、「幡多郡紀行」(安政五年)は「湊口百十五間斗有と云、北に入込事一里斗、奇岩多く洞穴の通りたるもあり、又御舟ばへ、鹿島はへなとも有」と記している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報