清水村(読み)しみずむら

日本歴史地名大系 「清水村」の解説

清水村
しみずむら

[現在地名]土佐清水市えびす町・もと町・あさひ町・寿ことぶき町・さいわい町・天神てんじん町・中央ちゆうおう町・さかえ町・ほん町・市場いちば

足摺あしずり半島の最もくびれた部分の西岸にあり、西南に尾浦おうら崎、東南に遠見とおみ崎に挟まれた奥深い湾の奥にある村(浦方)で、鼻前はなまえ七浦の一。中世以来の港で、伝えによるともと大江おおえといったという。「土佐州郡志」は「清水浦 有泉流故名、東限浦尻、西限越浦、其間二十五六町、北限伊布利、南限海際、四十町余、戸凡八十余、有船数隻、貝塚・恵比須浦、右両村総曰清水」と記す。地名は「大乗院寺社雑事記」文明一六年(一四八四)七月二四日条に、一条教房の子房家の動静を記して「当年三月ニ清水ヘ入御、南海之津也」とみえ、天文三年(一五三四)の蓮光寺梵鐘勧進帳(「南路志」所引)に「土州幡多庄以南村志水」とある。

天正一七年(一五八九)の清水之村地検帳によれば村には清水浦があり、検地面積八町三反余、屋敷数二七、うち居屋敷一九。屋敷のうちには蓮光れんこう寺・海雲寺が含まれるほか、蓮光寺阿弥陀堂・賀島大明神がみえる。水主又三良・宗七・勘衛門・彦四良、漁父新兵衛、番匠又五良・孫七・兵衛五良・菊松・源一良・久介・勘太良らが居住し、その給地や舟頭の給地がみえる。ホノギに「市場」「浜ヤシキ」「ヲドリ堂ヤシキ」「風呂ヤシキ」などがある。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によれば、こえ・清水・浦尻うらしり三崎みさき川口かわぐちを統轄する庄屋がいるほか、清水・浦尻両浦を管轄する刀禰が置かれていた。

清水村
きよみずむら

[現在地名]吾北村清水上分きよみずかみぶん清水下分きよみずしもぶん

西川にしがわ村の東、上八川かみやかわ川の支流えだ川と、その枝谷の川窪かわくぼ川などがつくる谷間に集落が点在する広域の村。東は土佐郡瀬戸せど(現土佐町)

天正一八年(一五九〇)の後山小川村地検帳に「是より清水分」として山畠屋敷地二九町二反一六代四歩、山畑一九町九反九代、切畑二六町一反二六代が記される。しかしこのうちにはのちに上八川郷の村となる程野ほどの村や、一部が西川村の飛地であったと思われるまつなども含まれる。同帳に記される清水分の小村は荷滝村・太ノヽ村・竹ヤシキ村・ヒヽ原村・東地村・坪名村・シキマキ村・小松ノ村・白根村・ホトノヽ村・中ノスク村・井モリノ村・名籔村・清水村・白井谷村・巻川村・ハセクハノ村・川クホ村・狩山村・イモリノ村・松ノキノ村などである。中ノスク村は現土居どいにあたるが、この地には名本屋敷四反六代(三軒あり)があり、名本清水氏(山内氏)が居住、近くには山内丹波守居住の屋敷四反(二軒あり)もあった。

清水村
しみずむら

[現在地名]花泉町花泉

金森かなもり村の金流きんりゆう川対岸にあり、北と東は有馬ありま川に限られる。石巻街道が通る。江戸時代初期までは志津とも書き、シヅと読んだ。坂上田村麻呂が地に剣をさしたところ清水が湧き出し、地名はそれにちなむという伝説がある。天正七年(一五七九)岩ヶ崎いわがさき(現宮城県栗原郡栗駒町)城主富沢日向守直綱が葛西氏に背き、清水村で一戦があった。このとき葛西方として戦闘に参加し、手柄を立てた小野寺主計頭・千葉肥前・熊谷菊之進・増子左七郎・加瀬谷源蔵らに葛西晴信から加増の宛行があった。なかでも増子左七郎は直綱勢では武勇第一とうたわれた大鳥刑部少輔を討取り、一万五千刈を与えられている(同年三月二八日「葛西晴信知行宛行状」日形増子文書など)。その後も不穏な動きがあったのか、七月には熊谷氏がながれへ派遣され、清水辺で待機している(同月七日「葛西晴信書状写」気仙沼熊谷文書)

清水村
しみずむら

[現在地名]東大和市清水一―六丁目・多摩湖たまこ一丁目・同四丁目・仲原なかはら一丁目・新堀しんぼり一―二丁目・清原きよはら一―四丁目・狭山さやま五丁目

現東大和市域東部に位置し、東は廻り田めぐりた(現東村山市)、南は小川おがわ(現小平市)、西から北にかけて後ヶ谷うしろがやと村に続き、狭山丘陵を境として入間郡町谷まちや(現埼玉県所沢市)。畑がちの村であった。田園簿に村名がみえ、田八〇石・畑二二〇石、旗本浅井領。ほかに氷川明神(現清水神社)領五石・三光さんこう(現真言宗豊山派)領三石。寛文九年(一六六九)に検地があった(風土記稿)。享保(一七一六―三六)の新田開発計画で二六町一反の芝地を割当てられたが、同一一年に一六町六反余を大岱おんた(現東村山市)へ譲渡した(「武蔵野開発割合覚」杉本家文書)

清水村
しみずむら

[現在地名]富山市清水町一―九丁目・於保多町おおたまち館出町たちいでまち一丁目・東町ひがしまち一―三丁目・緑町みどりまち一―二丁目・住吉町すみよしちよう一―二丁目・栄町さかえまち一―三丁目・元町もとまち一―二丁目・音羽町おとわちよう一―二丁目・旭町あさひまち雄山町おやまちよう清水中町しみずなかまち清水元町しみずもとまち・清水など

富山城下の東端部に接し、北は館出村など。五百石ごひやつこく往来が貫通し、立山参詣道の起点でもある。天正一三年(一五八五)佐々成政がさくら馬場をつくり、茶店を設けたと伝える(越中地誌)。西端を流れるいたち川は度々の洪水で被害を及ぼしながらも運輸の便を果してきた。

清水村
きよみずむら

[現在地名]加美町清水

とどろき村の北、杉原すぎはら川の上流域に位置する。天正一九年(一五九一)一二月二日の林与一郎売券(雲門寺文書)慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方一一〇石余・畑方九一石余、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(清水区有文書)によれば高二四三石余・反別二八町九反余、小物成は山手銀二九匁余・野藪年貢銀四匁余・炭竈役銀五四匁・鉄砲役銀一四匁・茶役銀二二匁。天明九年(一七八九)の村明細帳(同文書)では高二三九石余・反別二八町二反余、うち諸引(川成など)三〇石余、家数五五(高持五二・水呑三)・人数二五七、牛二三、西宮にしのみや大明神、雲門うんもん(現臨済宗妙心寺派)・薬師堂・観音堂、天神小社があり、小物成は延宝五年と同じで、ほかに川役銀一分・水車一両運上銀四匁余がある。

清水村
きよみずむら

[現在地名]川辺町清水

南西流する広瀬ひろせ(万之瀬川)流域に位置し、南西は古殿ふるとの村。北東端にくまヶ岳(五八九・七メートル)がそびえる。花園はなぞの桜元さくらもと小栗栖こぐるす木場田こばんた田代たしろ市崎野いつさきの小崎こざき馬立またて仁之野にののの集落がある。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の嫡子貞泰に「きよミつのむら」などが譲られているが、清水村は母の一期分とされている。年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)に「清水之村 十八丁」とみえ、伊集院頼久の所領となっている。

清水村
しみずむら

[現在地名]野田市清水

野田町の北に位置し、西方に座生ざおう沼が広がる。元和三年(一六一七)の開発定書(渡辺家文書、以下断りのない限り同文書)に村名がみえる。同定書では古荒地を開く場合、年貢は三ヵ年作取、諸役は五ヵ年用捨とし、新田開発の場合は同じく七ヵ年作取、一〇ヵ年用捨としている。同七年に検地が行われている。寛永三年(一六二六)年貢割付状では田一五町七反余・取米二一石余(六二俵余)、畑二八町五反余・取永一二貫一二五文で、ほかに野銭一二五文を納入している。寛文九年(一六六九)には岩名作いわなさく貝塚かいづか丸山まるやま柳沢やなぎさわなどの新開検地が行われ、一町九反余を打出している。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五〇〇石余、幕府領と地内金乗こんじよう院領の相給。

清水村
しみずむら

[現在地名]東村清水

東は町田まちだ村、西は桑山くわやま(現江戸崎町)。村の北部は台地で、南部は新利根川左岸の低地。台地上に大沼おおぬま福田ふくだ両古墳群に連なる円墳六基があり、古くから開けた地と思われる。中世は東条とうじよう庄に属し、江戸時代は天領で、寛文四年(一六六四)の田畑水帳写(坂元茂氏蔵)には田一二町余、畑五町余が記される。これを基礎に新田が次々と高入されていくが、同年の古新田畑反別水帳(同氏蔵)では畑二町三反、同一二年の年々開反別帳(同氏蔵)で田約六町、同一三年の戌渡新田水帳(同氏蔵)では田一五町・畑三町六反、同年の清水崎新田反別水帳(同氏蔵)で田四町余・畑七町六反、享保二〇年(一七三五)の小浦沼新田之内清水村新田検地帳(同氏蔵)で田一町、元文三年(一七三八)の前浦沼新田之内清水村検地帳(同氏蔵)で田一町二反、延享元年(一七四四)の原地新田検地帳(同氏蔵)では畑約六町が記される。

清水村
しみずむら

[現在地名]南区清水一―四丁目・大楠おおぐす一―三丁目・玉川町たまがわまち、博多区美野島みのしま四丁目・竹下たけした一丁目

塩原しおばる村の北西、那珂なか川左岸にある。南西は野間のま村、東は竹下村(現博多区)、北は住吉すみよし(現同上)。正長元年(一四二八)正月吉日の、清水村宗大夫景国の判が裾えてあった清水村田数帳案(三浦家文書/大日本古文書一四)によると、清水村の総田数は二五町、うち仏神免田二町一反・井料溝代一町・年不河成一町九反半などを除く得田一九町二反半が浄心以下八名の百姓に配分され、浄心分五町二反のうち七反は満願寺領となっていた。永享六年(一四三四)一一月一〇日の同村の田数帳案(同上)には、浄泉以下九名の抱える耕地の坪付が記されている。

清水村
しみずむら

[現在地名]津幡町清水・加賀爪かがつめ

津幡川に沿い、北陸街道と能登街道の分岐点に位置。津幡宿四ヵ村の一。おもな集落は津幡川右岸で東の津幡村と軒続きであったが、一部左岸の加賀爪村地内に飛地があった。加賀国津幡図(冷泉家蔵)は当地上流に岩清水、八幡宮(現清水八幡神社)前に清水を描き地名の由来とする。寛永二〇年(一六四三)の宿並居屋敷高六石九斗・役家軒数二三(「津幡四ヵ村諸事覚帳」河合文書)。正保郷帳では高四七九石余、田方二三町余・畑方八町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には津幡之内清水村とみえ、草高五五七石、免五ツ四歩、小物成は山役七五匁・野役三八匁・鍛冶役一三匁・紺屋役一五匁、油役三匁(出来)、室役三〇目(三箇国高物成帳)

清水村
きよみずむら

[現在地名]揖斐川町清水

長良ながら村の東、権現ごんげん山の南麓にある。天正一〇年(一五八二)織田信長が本能寺の変で死んだ直後、西美濃で最も勢力のあった稲葉一鉄良通は、揖斐城を収めるなど軍事行動を起こして豊臣秀吉の疑惑を受け、清水に引籠った。良通は後川うらかわの山上にあった清水城を崩して新城を麓に築き、天正一六年没するまで住んだ。良通の死後、稲葉氏は郡上八幡ぐじようはちまん(現郡上郡八幡町)へ移されたので同城は一時廃れるが、庶子重通が城主となり、続いてその子通重が継いだ。通重は一万二千石を領したが(恩栄録)、慶長一二年(一六〇七)に改易となる(廃絶録)。領地は幕府領となり、代官林氏の陣屋となるが、寛永八年(一六三一)当村が同代官岡田氏の知行地となるに伴い城も廃された。

清水村
しみずむら

[現在地名]明石市魚住町清水うおずみちようしみず

瀬戸川中流域の山陽道沿いに開けた村。西から北は清水新田村、南東は長坂寺ちようはんじ村、南は西にしおか村、加古郡東二見ひがしふたみ村、西は同郡福里ふくさと村。野々上組に所属。応安四年(一三七一)二月九州探題として赴任の旅に出た今川貞世(了俊)は「し水」を通過している(道ゆきぶり)

慶長国絵図に清水町とみえる。正保郷帳では田高三三二石余・畑高一六二石余、松山あり。天保郷帳では高六二七石余。山陽道沿いに発展した村で、中世から清水千家といわれ賑いをみせたという。明石と加古川の間の宿場として栄え本陣もあり、「采邑私記」によれば駅馬四匹。

清水村
しみずむら

[現在地名]三野町清水

吉野川北岸、加茂野宮かものみや村の東に位置し、東は美馬みま重清しげきよ(現美馬町)、北は讃岐国鵜足うた勝浦かつうら(現香川県琴南町)。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「志ミつ」とみえ、同二年の分限帳では二〇〇石が蜂須賀彦次郎、一二五石余が谷源太郎の知行。正保国絵図では高四九六石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によると田方一八六石余・畠方三一〇石余、水損・芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高五〇石余。宝暦一一年(一七六一)の巡見村々指出(三好郡志)では高三八七石余、物成一五八石余、家数一三八・人数五四八、牛七二・馬三、社七、庄屋は三郎右衛門。

清水村
しみずむら

[現在地名]岩出町清水

紀ノ川中流右岸にあり、大町おおまち村の南西にあたる。西はみや村。南部を大和街道が通り、街道沿いに集落がある。「続風土記」は「昔は此村井谷村といへり、閼伽井寺の縁起に出たり、清水の名は閼伽井の水清浄なるより出つといふ」と記す。中世は石手いわで庄に含まれていた。

慶長検地高目録によれば村高五〇七石余、小物成一石三斗二升一合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田二四町四反余で高三九七石余、畑七町余で高一一三石余。

清水村
しみずむら

[現在地名]茨木市清水一―二丁目・宿久庄しゆくのしよう三丁目・同五丁目・豊川とよかわ一丁目・同三丁目・西豊川にしとよかわ町・南清水みなみしみず町・藤の里ふじのさと二丁目・清水

宿久庄村の南にあり、勝尾寺かつおじ川沿いに集落を形成。村名は「摂津志」にもみえる山井やまのいの清水にちなむという。山井清水は桃の井とも月の清水ともいわれ、清和天皇の勝尾寺(現箕面市)参詣に際し、村人が桃の花を井中に挿して観月の興に添えたと伝える(大阪府全志)。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図には北清水村と清水村がみえる。江戸時代前期には宿久庄村に含まれたが、同村からの分村は、寛永一〇年(一六三三)に領主となった山城勝竜寺藩永井直清が慶安二年(一六四九)の領知替で移封されたのちのこととみられる。

清水村
しみずむら

[現在地名]橋本市清水

賢堂かしこどう村の西、紀ノ川南岸に面する。東家とうげ橋本はしもとから三軒茶屋さんげんぢややへ渡り学文路かむろへ向かう高野街道に沿い、「続風土記」は「家居宜しく町をなして、二百軒許一所に連なれり、当村より丁田村辺高野領にては沃壌の地といふへし」と記す。

寛元二年(一二四四)三月三日付の坂上氏女田地相博状(西光寺文書)に同女の私領として「河南清水村烏田」一段のあったことを記す。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社の八月放生会に米二斗五升を納めていた。

清水村
しみずむら

[現在地名]安濃町清水

安濃川左岸の平地部にあり、太田おおた村の南にあたる。集落は美濃屋みのや川の南側にある。古くは泉と書かれ、「神鳳鈔」に「外宮泉御薗二斗」、「外宮神領目録」に「泉上御園三斗」とみられる。藤堂氏入封後、領主の和泉守の名をはばかり江松こうしよう寺横より湧出る清水にちなみ「清水」と変更したという(五鈴遺響)。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「泉郷事清水村」と出る。

江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数七二、ほかに郷士六、人口二九三、牛一九。

清水村
すんずむら

[現在地名]国府町清水

岡益おかます村の東に位置する。澄水村とも記した(因幡民談記)。村名は山裾から湧く二ヵ所の清水にちなむという。谷川などの水で水利には恵まれていた。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には鳥取から二里を示す一里塚が法美ほうみ往来沿いに記されている。集落北方の清水しみず橋の脇には文久二年(一八六二)宝知院と当村清水吉左衛門が大峯山へ三三席参籠した供養に建てた石碑が残り、「都へ五十里、伊勢内宮へ九十一里、大峯へ八十一里」とみえる。

拝領高は二四二石余、本免は六ツ七分。高木氏の給地があった(給人所付帳)

清水村
しみずむら

[現在地名]尼崎市南清水みなみしみず猪名寺いなでら二―三丁目・塚口本町つかぐちほんまち五―八丁目

猪名寺村の南に位置する。慶長国絵図に村名がみえ高三三一石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では清水村の内として幕府領(建部与十郎預地)、高二八五石余。正保郷帳でも同高で幕府領。天和元年(一六八一)京都所司代稲葉正通(相模小田原藩)領となり、同三年幕府領、貞享二年(一六八五)大坂城代(以下、人名はすべて大坂城代)内藤重頼領となる。

清水村
きよみずむら

[現在地名]西都市清水

三宅みやけ村の南西に位置する。集落は西都原さいとばる台地の南端にあり、その下を三納みのう川が流れる。田部姓土持氏系図(土持文書)によれば、正長年間(一四二八―二九)に伊東祐尭と対立した土持治栄は敗れて当地に住し、その子頼綱から清水氏を称したという。近世の領主の変遷は穂北ほきた村と同じ。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に「参拾町 清水」とある。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高四一四石余、天保郷帳では高四二八石余。

清水村
しみずむら

[現在地名]甲西町清水

古市場ふるいちば村の東に位置し、東は戸田とだ村、南は大師だいし村。村内に弘法の清水(独鈷の水)があり、村名はそれに由縁すると伝える(文化三年「書上」中巨摩郡志)。天正一七年(一五八九)九月二三日の若宮八幡社末社覚(水上哲太郎家文書)に「古若宮 清水村(名主)弥七郎」がみえる。慶長六年(一六〇一)の清水村検地帳(県立図書館蔵)によると麦田二町三反余・上田一町六反余・中田八反余・下田三町二反余・下々田三町余、上畑三反余・中畑四反余・下畑五畝余、田畑計一一町八反余、屋敷数は六、計六四一坪、ほかに熊蔵荒一町四反余、除地八〇坪(八幡寺寺中)

清水村
しみずむら

[現在地名]龍野市揖西町清水いつさいちようしみず揖西町清水新いつさいちようしみずしん

小神おがみ村の西に位置し、揖西郡に属する。中垣内なかがいち川が南流し、村内で古子ふるこ川を合せる。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に清水村とみえ、小出吉政は当村の三三四石余などを与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では二筆に分けて記され、池田輝政による内検地高三〇九石余・一四八石余、高二五五石余・一二二石余。

清水村
しみずむら

[現在地名]珠洲市清水町

片岩かたいわ村の南西にあり、外浦街道が通る。集落は垣内の吉森よしもりを含め浜方に多いが、垣内の藤尾ふじお(藤野とも)は山方にある。永正四年(一五〇七)四月四日の岩倉寺観音堂(現輪島市)の再興棟札銘に「三貫三百文藤尾彦三郎」とみえる。近世初頭は仁江にえ村の内として把握されていたが、寛永七年(一六三〇)に分立、吉森・藤尾・利長・光長・菅安の五名で構成された(延宝五年「仁江村儀右衛門書上」友貞文書)。寛永四年の年貢皆済状(堂前文書)に仁江組清水村とみえ、定納口米三三石余・山銭米口米三石余・舟銭米口米三斗余のいずれも塩で納めている。

清水村
しみずむら

[現在地名]大町市大字常盤ときわ 清水

現大町市の南部で、西に北アルプス前山を背負い、それから流下する川のもたらした神明原しんめいばらの扇状地扇端部に位置し、南は現西山にしやま集落に接する。村の中を和田堰わだせぎが引かれ水田を潤している。

天正一〇年(一五八二)上杉景勝が所伊賀守に与えた朱印状(続錦雑誌)に「清水 参拾貫文」の所領を安堵している旨がみられるが、これを清水の名の初見とする。

清水村
しみずむら

[現在地名]松阪市清水町

立利たてり村の東、櫛田くしだ川の左岸にあり、北は菅生すぎゆう村、南は櫛田村に接する。「政所賦銘引付」(広島市立中央図書館浅野文庫蔵)の文明六年(一四七四)五月二五日条に「伊勢国参宮海道清水橋号森ノ橋トモ賃事(中略)彼橋賃在所長野知行分也」とみえ、「被成奉書三通了、加判清泉州 宛身一通長野国司北畠中将家雑掌」とある。当地は中世末まで参宮古道が通り、西方さいほう寺は森の薬師として名高く、清水橋がもりノ橋と号するところから、この清水橋の所在地は当村にあたると考えられる。

清水村
きよみずむら

[現在地名]色麻町清水

保野ほの川と鳴瀬なるせ川に挟まれ、往古は村の北辺一帯は、鳴瀬川・長谷はぜ川の氾濫による遊水地帯であったと思われ、耕地の大半を占める。高根たかね村の東にあり、北は月崎つきざき(現小野田町)に続く。村名は坂上田村麻呂が、京都清水寺を勧請したことによるという(安永風土記)。正保郷帳に田四三貫四四三文・畑五貫四六二文とあり、ほかに同所新田四三三文がある。「安永風土記」によれば、田四三貫五四五文・畑六貫四〇九文で、蔵入は三〇三文、給所は四九貫六五一文、人頭三八人(うち寺一・沽却禿一)、家数四〇(うち水呑三)、男九二・女七六、馬三六で、月崎村へ長さ六間・幅一間の権内橋が架かっている。

清水村
しみずむら

[現在地名]門前町清水

走出はしりで村の西、はつヶ川中流の南岸平地に立地。中世は櫛比くしひ諸岡もろおか村の内。応永六年(一三九九)六月日の総持寺寺領目録(総持寺文書)に「屋敷一所在所清水」とみえ、宗義上座(長谷部秀連)が総持寺開山塔供料として寄進していた。正保郷帳では高一二〇石余、田方五町九反余・畑方二町一反余、新田高四四石余、田方二町九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一三一石余、免五ツ二歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一九八石余、免五ツ六歩、小物成は山役一五匁、鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。享保二〇年(一七三五)の家数一三(「奥両郡高免付込帳」中谷文書)

清水村
しみずむら

[現在地名]猪名川町清水・清水東しみずひがし

笹尾ささお村の北にある。前谷まえたに川が猪名川に流入する。東部を猪名川沿いに南北に通じる道がある。慶長国絵図に「清水村」とみえ、高一四九石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬むつせ一〇ヵ村のうちとして「清水」とあり、幕府領(摂津代官長谷川藤継預地)。領主の変遷は下原村しもばらむらと同様。延宝七年(一六七九)の検地帳(奥畑家文書)によれば高一五五石余で、溜池は北谷きたたに池・宮谷みやたに池・福井ふくい池の三ヵ所、氏神の天神・山王・大歳おおとし宮や薬師堂・成仏じようぶつ寺の各境内は慶長二年(一五九七)の古検地以来除地とされていた。小物成は山手米二石余、入木入炭代銀一八匁、茶・柿・栗・山椒代銀六匁五分。

清水村
しみずむら

[現在地名]松原市南新みなみしん町四―六丁目・北新きたしん町六丁目

丹北郡に属し、向井むかい村の西、西除にしよけ川左岸にある。地形は平坦で、村の南部を東西に長尾街道が通る。慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に村名がみえ、狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋おおひ筋から取水していた。水懸り高二四九石余。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳も同高。領主の変遷は池内いけうち村に同じ。宝暦九年(一七五九)の丹北郡菜種木綿作高反別帳(長谷川家文書)によると、綿作率は村高の二六パーセント、菜種は一八パーセント。

清水村
しみずむら

[現在地名]小矢部市清水・鴨島かもじま

津沢つざわ町の南、小矢部川中流域平地に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数七、本江組に属する。正保郷帳では高三三三石余、田方一四町二反余・畑方八町、新田高二八四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七一三石・免三ツ五歩、小物成は野役二〇目・鮭役二二匁・鮎川役四匁・鱒役二匁・猟船櫂役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高八一二石・免四ツ一歩。所属組は棚田たなだ村に同じ。当村に万治三年(一六六〇)以前に本江ほんごう(現福野町)から阿曾三右衛門が移住、津沢町の町立てを推進した。津沢御蔵は小矢部川右岸にあり、左岸からの収納米運送が不便であったから、寛文三年に小矢部川左岸の鴨島に奥行四間・間口二五間、高五千石を収納する鴨島御蔵が建てられた。

清水村
しみずむら

[現在地名]上磯郡上磯町字清川きよかわ

明治二年(一八六九)から同一四年まで存続した村。函館平野西端の戸切地へきりち川左岸にあった。地名は同川の支流清水川の川名による。安政五年(一八五八)に京都西本願寺僧堀川乗経が、檀家で箱館の豪商国領平七と協議し、濁川にごりかわ村に五五万坪の土地を幕府に請い、翌六年本山が但馬・越前・能登・加賀から募集した岡本吉兵衛ら三七四名を移住させ、開拓させた(函館市史資料集)。入植した年を安政四年とする説もある(「沿革調」上磯町誌)。万延元年(一八六〇)箱館願乗がんじよう寺の休泊所を設置、文久二年(一八六二)宣法せんぽう庵と改称した(明治一一年江差に移転。西本願寺江差別院となる)。事業は困難で、不慣れな農民はしだいに離散し、わずかに七〇余名を残す状態となった(近世渡島地方史)

清水村
しみずむら

[現在地名]松代町清水

北は門出かどいで(現刈羽郡高柳町)桐山きりやま村、南西は会沢あいさわ村。正保国絵図では高一一石余。天和三年郷帳では高一八石余、反別四町一反余・青苧畑一反余で漆木一七本。安永九年(一七八〇)の新田検地では高六八石三斗余。明治五年(一八七二)の戸数七一。貞享五年(一六八八)の鉄炮無之村々証文帳控(国立史料館蔵)では当村の庄屋一人・組頭一人・百姓二人・名子四人が連印している。天明三年(一七八三)の夫食米拝借願(小野島正守氏蔵)に村名がみえる。

清水村
しみずむら

[現在地名]綾部市五津合いつあい町 清水

遊里ゆり村の北、畑口はたぐち川が深く川床をえぐり、東西は山が迫った所に位置し、集落は段丘にある。「丹波負笈録」は「在中清水と云池有、是清水村也、奥ハ白屋垣口ハ清水と云」と記す。園部藩領。

中世は上林かんばやし庄の地。村名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「出水村」とみえるのが早く、「白屋垣」の地名も記される。

清水村
せいずいむら

[現在地名]広見町清水

大宿おおじゆく川中流域の谷間の村。北は大宿村、西は畔屋あぜや村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「清水村 柴山茅山、川有」と村名がみえる。「御年譜微考」では長楽寺ちようらくじ谷を当村の内に加えている。この点からみて現生田いくた地区の近隣まで当村に属していたと考えられる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は五六〇石七斗で、耕地面積の比率は田七四パーセント、畑二六パーセント。寛文検地では石高が一八パーセント増加し、田五七パーセント、畑四三パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「上」、田が「上」、畑は「中ノ下」、水掛りは「吉」とされている。

清水村
しみずむら

[現在地名]館山市水岡みずおか

安東あんどう村の北東に位置する小さな谷に展開し、谷の最奥には横穴墓や中世のやぐらが多数分布する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一二五石余(うち田六九石余)、同一五年の里見家分限帳によると本織もとおり(現三芳村)延命えんめい寺領になっている。その後も江戸時代は一貫して同寺領で、旧高旧領取調帳によると明治元年(一八六八)長尾藩領となった。房陽郡郷考では家数二四。明治八年に北片岡きたかたおか村・南片岡村と合併して水岡村となる。字内田うちだに鎮守の天満神社があり、文政一〇年(一八二七)の天神宮再建棟札、天保七年(一八三六)の疱瘡神勧請の棟札、同一五年の牛頭天王再興棟札などが残されている。

清水村
しみずむら

[現在地名]小布施町清水

小布施扇状地の扇端湧泉地である。東は六川ろくがわ村・西は押切おしきり村と道路・耕地で境。

「上杉年譜」天正一〇年(一五八二)八月、上杉景勝から窪島日向守へあてた安堵状案に、「六川之内、清水分」とある。慶長七年(一六〇二)森忠政による検地では、一三三石余の村(「川中島四郡検地打立之帳」小柳文書)。この頃六川郷から独立村となった。村の東を六川村を縦貫する古道が通る。

現字清水場しみずばに太型蛤刃石斧、またここに現中野市安源寺へ移ったという安源寺跡の伝承を残す。慶長八年松平忠輝(松代)、元和二年(一六一六)幕府領か、同五年福島正則(高井野)、寛永元年(一六二四)幕府領、寛文元年(一六六一)甲府領、元禄一四年(一七〇一)幕府領、寛政四年(一七九二)越後椎谷領と変転して廃藩に至る。

清水村
しみずむら

[現在地名]宇佐市清水

木部きべ村の南、丘陵上に位置し、南東は今仁いまに村。地名は地内の曹洞宗清水せいすい寺にちなむという(太宰管内志)上山田かみやまだには彩色装飾を施した横穴群(二一基)があり、清水百穴の通称がある。永享一一年(一四三九)一〇月三〇日の庄寿玄申状(宇佐郡文書)に内尾公重給地の高家郷内「行徳富久并清水弐町」のうちとして「清水」がみえる。近世の領主の変遷は尾永井おながい村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高二九三石余、人数八二、百姓九(うち庄屋三)・名子五・坊主二、牛八・馬三。

清水村
しみずむら

[現在地名]鹿島町清水

鹿島灘に臨む海岸段丘上にあり、北は小山こやま(現大野村)、西は田谷たや村。天正一九年(一五九一)佐竹義宣の南方進出に伴い、一族の東義久の知行地となり(水戸市史)、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百三拾六石九斗四升 こミや作・おり戸・あかし・なる作・志ミつ・こやま・かうや」とある。

江戸初期に旗本領となり寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は八二二石余で、旗本猪飼・岩手両氏が支配した。元禄郷帳では村高一七四石余と大幅に減石し、元禄期(一六八八―一七〇四)頃までに村内の各集落が自立したことがわかる。

清水村
しみずむら

[現在地名]河内長野市清水・南青葉台みなみあおばだい

天見あまみ谷にあり、天見川を挟んで右岸は下岩瀬しもいわぜ村。川沿いの高野街道で北西石仏いしぼとけ村に通じる。西は緩やかな山地。慶長六年(一六〇一)の検地帳の集計は反別二〇町七反余・分米二〇一石余(中村宏家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二〇一石余、ほかに山年貢高一一石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では二一二石余。領主の変遷は長野ながの村に同じ。家数は元文四年(一七三九)三五(高持三四・無高一)、安永四年(一七七五)四〇、文政八年(一八二五)二〇(高持一九・無高一)

清水村
しみずむら

[現在地名]和気町清水

現和気町の最南部にあり、南北に通る片上かたかみ往来を南へたどると榜示ぼうじヶ峠越で西片上村(現備前市)へ通じる。北は大中山おおなかやま村。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成三五石余、夫米二石余。寛永備前国絵図によれば高七四石余。「備陽記」では田畑九町二反余、家数三八・人数二〇七。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高一一二石余で家臣一名の給地。

清水村
しみずむら

[現在地名]一迫町真坂まさか

真坂村の南に位置し、東は柳目やなぎのめ村、西は大川口おおかわぐち村と接する。村内を伊豆野いずの堰が東流する。南の丘陵地ではいたるところ泉水が湧き、「和名抄」栗原郡四郷のうちの清水郷の遺称地とする説もある。寛永六年(一六二九)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に二〇貫九四九文「一(迫カ)之内清水村」とあり、白石刑部太輔に下し置かれている。正保郷帳に田一一三貫二〇三文・畑一〇貫三〇六文とあり、ほかに新田二貫五一九文。「封内風土記」に戸数四五とある。

清水村
しみずむら

[現在地名]青森市清水

東は陸奥湾に面し、南は前田まえだ村、北は内真辺うちまんぺ村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高三七四・三二七石、うち田方三四五・四三九石、畑方二八・八八八石、漆木六五五本などが記される。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下である(平山日記)。享和二年(一八〇二)伊能忠敬の「測量日記」に家数二二とある。明治初年の「新撰陸奥国誌」に清水川村とあり「家数三十八軒。土地中、畑少」とある。集落西の川瀬かわせに旧村社天満てんまん宮がある。祭神は菅原道真。

清水村
しみずむら

[現在地名]稲沢市清水町

東は西御堂にしみどう(現一宮市)竹腰たけのこし村・浅井あさい村に接し、村の東境を光堂ひかるど川が流れ、本郷は中央にある(寛政村絵図)。天正末、織田信雄が幅三間の支線道路築造を命じた判物(酒井家文書)に清水とみえ、家臣祖父江五郎右衛門の知行地であった(氷室家文書・織田信雄分限帳)

概高六八七石余、新田三三石余、計七二〇石で、六五三石余は藩士六人の給知。田地二二町一反五畝余・畑地一五町一反三畝余、新田二二石余。

清水村
しみずむら

[現在地名]鳥越村出合であい

二曲ふとぎ村の北、大日だいにち川左岸の谷間に位置する。南西の光谷みつたに(三ッ谷越ともいう)を経て三ッ谷みつたに(現小松市)に至る。正保郷帳に村名がみえ高一六一石余、田方六町一反余・畑方三町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一四〇石、免三ツ五歩、小物成は山役一〇一匁・川役一四匁(三箇国高物成帳)。弘化三年(一八四六)の軽海郷品々帳(石倉文書)によると、宝永二年(一七〇五)手上高四石を加えられ、高一四四石、百姓数二〇(うち懸作一)

清水村
きよみずむら

[現在地名]牛堀町清水

台地上にあり、東は茂木もとぎ村、西は麻生あそう(現麻生町)。「新編常陸国誌」は村名の由来を、「此地旧富田村ノ内ナリシヲ、分テ一村ト為シタリト云フ、村中ニ古ク観照院ト称スル寺アリテ、清水ノ観音ヲ移ス、村名ハ蓋シココニ起ル」と記す。中世は木田見きたみ郷に属し、島崎しまざき城主の支配下にあったが、同氏滅亡後は佐竹氏の所領となった。慶長七年(一六〇二)同氏秋田移封後、水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一二九石余とある。

清水村
しようずむら

[現在地名]八尾町清水

花房はなぶさ村の南、大長谷おおながたに川左岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では上中山かみなかやま村の川を隔てて一二町ほど南西方にある枝村新田としてみえ、高五二石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高九二石。天保一三年(一八四二)地味が悪いため滝谷たきたに村などとともに村仕法米扱いとされ、四ヵ村に二〇石が支給された(「御用諸事留帳」岡崎家文書)

清水村
しみずむら

[現在地名]東海市荒尾あらお

集落は北部に発達。北・東は平島ひらしま村、西は加家かけ村に接する。村名は村南の清水城跡の清水が湧出る井戸に由来するといわれる。「寛文覚書」によると、概高二九四石余、田八町二反八畝余・畑七町二反余、家数二〇、人数一六六。

現浄土宗清水せいすい寺は普門ふもん寺といい(寛文覚書)、聖観音は鎌倉中期の秀作で、市指定文化財。同寺にある室町初期の阿弥陀如来画像は衛門九郎とよばれ、虫供養に際し祀られる。

清水村
しみずむら

[現在地名]真岡市清水

五行ごぎよう川と小貝こかい川に挟まれた平坦な台地中央に位置する。現茨城県笠間かさま稲田の西念いなだのさいねん寺に残る親鸞門侶交名に「稲田教念の門弟 下野シミヅノ清水大和守高光 法名教忍」とある。慶長七年(一六〇二)から黒羽藩領。領知高書上(宇都宮大学附属図書館蔵)によると、当初は大関氏寄騎金丸弥平太の知行地で八七石余。慶安郷帳には八五石とある。

清水村
しみずむら

[現在地名]彦根市清崎町きよさきちよう

しま村の南西に位置し朝鮮人街道に沿う。村の中央を宇曾うそ川が北流し、西に荒神山がある。古代の犬上いぬかみ郡清水郷(和名抄)、中世の清水庄の遺称地。慶長高辻帳に村名がみえ高九七一石余。寛永石高帳ではほかに荒神領三二石余が記される。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ六分。

清水村
しみずむら

[現在地名]加賀市清水町

動橋いぶりはし川と那谷なた川の合流点南に位置。南は勅使ちよくし村。「江沼志稿」に「清水村清泉、村ノ後背井戸輪三ケ所有、九夏三伏ニモ不涸」とあり、村名もこれによるものであろう。正保郷帳によると村高二二七石余、田方一二町八反余・畑方七反余、物成高九七石余。「江沼志稿」では高二〇七石、うち八石余はしよう村新平高とされているが、新平については不明。

清水村
しみずむら

[現在地名]岡山市清水一―二丁目など

藤原ふじわら村の北に位置する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)はた郷に村名があり、寛永備前国絵図では高六一一石余。「備前記」によると平場の集落で、枝村として小淵をあげる。「備陽記」では田畑三九町七反余、家数四七・人数二七三。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千一三〇石余、蔵入と家臣七人の給地。

清水村
しようずむら

[現在地名]山田村清水

山田牧やまだのまき村の南西、和田わだ川上流の丘陵地に立地する。山田清水村とも称する。正保郷帳に村名がみえ、高九六石余、田方三町・畑方三町四反余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高一二一石・定免五ツ、新田高二石余・免六歩、定小物成は山役銀四二匁・漆役銀二匁余・蝋役銀一匁余。

清水村
しみずむら

[現在地名]南条町清水

北陸街道から少し西に入った山麓にある小村。南東は東谷ひがしだに村、北東は脇本わきもと村。脇本庄五ヵ村の一。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「西脇本村清水分」とみえ、村高四二〇・八三石であった。正保郷帳によれば田方三七〇石余・畠方五〇石。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領となり、宝暦九年(一七五九)以降、旗本金森家領となった。貞享四年の南条郡々高反別本百姓雑家百姓男女人別改(「越前宗門帳」所収)によれば高持百姓一四軒八六人・雑家二六軒九五人。

清水村
しみずむら

[現在地名]加古川市西神吉町鼎にしかんきちようかなえ

下富木しもとみき村の東、法華山谷ほつけさんたに川中流の南に広がる通称神吉台地の北部に位置する。近世初期に下富木村より分村した(元禄郷帳)。慶長国絵図に下富木とつじ村の間に新村とみえるのが、当村または長慶ちようけい村と思われる。

清水村
すいすむら

[現在地名]瀬戸内町清水せいすい

古仁屋くにや村の南東に位置し、集落は瀬戸内に臨む。ひぎや間切東方のうちで、スィス、シィシともいう。「大島私考」に東方一二ヵ村のうちとして「清水村」とみえ、高九八石余、うち享保内検後の開地は三石余。「大島与人役順続記」には四番組として当済がみえるが、彼は篠川しによほ村の芝家の出身とされ、親子ともに当済を称している。

清水村
きよみずむら

[現在地名]藤枝市はら堀之内ほりのうち

原村の西に位置し、瀬戸せと川が平野部に出る東側に立地する。志太しだ郡に属し、村名は山麓の高野山真言宗清水寺に由来する。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高一三石余、田中藩領。寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)や国立史料館本元禄郷帳でも田中藩領であるが、宝永二年(一七〇五)もしくは正徳二年(一七一二)に上知されたようで、以後幕末まで幕府領であったと考えられる(「寛政重修諸家譜」・正徳二年土岐頼殷領知目録・「志太郡誌」・旧高旧領取調帳など)

清水村
しみずむら

[現在地名]岡山市芳賀はが

芳賀村の北東に位置する山上の村で、標高はおよそ一〇〇メートル。東方尾根上に中世の墳墓群が点在し、また西側の尾根上には金鶏塚きんけいづか遺跡(経塚)がある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高二五石余。「備陽記」によると田畠三町二反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高三六石余、水野作右衛門の給地。家数五・人数三六、牛四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高三六石余、家臣水野の給地。

清水村
しみずむら

[現在地名]設楽町西納庫にしなぐら

名倉なぐら川の上流、標高九八二・九メートルの岩伏いわぶせ山西麓で、名倉平の最北端に位置する。慶長八年(一六〇三)検地が行われ、反別六町余・石高七四石余を検出。戸数は一二戸で、うち一石以下一人、五石以下三石まで五人、一〇石以下五石まで四人、一五石以下一〇石まで二人の構成であった。

清水村
しようずむら

[現在地名]宮川村清水

赤滝木屋あかたきごやの南西、宮川の右岸にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「清水村」と記される。本田木屋ほんだごやへの舟渡しがあり、熊野街道から大杉谷おおすぎだにへの参詣の道筋にもあたる。元禄郷帳は清水村枝郷として彦新田を記す。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)に「渡船 壱艘 熊野往来渡し」と記される。

清水村
しみずむら

[現在地名]上志比村清水

九頭竜くずりゆう川中流域の左岸の平地部、大野島おおのじま村の南に位置する。南は勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「志比上之庄」に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方二二六石余・畠方五五石。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。

当村は、九頭竜川の水害から村を守るため長さ三〇〇間の清水五箇立合大堤を構築していた(福井県史)

清水村
きよみずむら

[現在地名]小城町大字松尾まつお字清水

小城町の北方、標高二〇〇メートルの山中にある。

正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)には、「清水寺八丁」「観世音寺四丁」とある。また大永五年(一五二五)の千葉興常判物写(光勝寺文書)には、清水西谷三六町を松尾山南陽なんよう院への寄進地として書き上げている。

清水村
しみずむら

[現在地名]金沢市清水町

田島たのしま村の南西、戸室とむろ山の北側山腹に位置。正保郷帳では南原みなみはら村と並記され、高四五石余、田方六反・畑方二町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四五石、免四ツ五歩、小物成は山役一七匁(三箇国高物成帳)

清水村
しみずむら

[現在地名]瑞浪市土岐町ときちよう 清水

南流する土岐川西岸にあり、西は一日市場ひといちば村。した街道が川沿いに通る。神篦こうの村枝郷で、寛文年間(一六六一―七三)に同村から独立したとされるが、郷帳類ではいずれも神篦村として一括される。岩村藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳(日比野文書)によれば高二〇〇石余、田一二町余・畑二町八反余、新田高七石余、田一反余・畑八反余、大縄場二反余、家数四五・人数一七四、馬三。

清水村
しみずむら

[現在地名]大塔村大字清水

てんノ川とふなノ川の合流地付近に立地。十二村じゆうにそん野長瀬のながせ組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石に含まれ、幕府領。延宝検地による村高は二〇・八七石。

清水村
しみずむら

[現在地名]総社市井手いで

井手村の東に位置する。寛永備中国絵図では高二二〇石余、旗本蒔田領。正保郷帳では八田部やたべ村の枝村に記されるが、元禄郷帳では独立して記され同領。以後、幕末まで同領であるが、文久三年(一八六三)蒔田氏が大名に列せられ浅尾藩領となる。

清水村
しみずむら

[現在地名]浜益郡浜益村大字柏木村かしわぎむら

明治初年(同二年八月―同六年)から明治一五年(一八八二)までの浜益郡の村。「石狩国地誌提要」によると戸数八(すべて永住)・人口二四(男一三・女一一)、畑五町三反余。

清水村
しみずむら

昭和二年(一九二七)から同一〇年まで存続した上川郡の村。昭和二年九月に上川郡人舞ひとまい村が改称して成立。同年の戸口は一千四二六戸・七千六三五人(清水町史)。同三年字ニトマップが字人舞、字ペケレベツが字清水に改称された。

清水村
きよみずむら

[現在地名]安来市清水町

早田そうだ村の東に位置し、清水山に古刹清水寺がある。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳によると高三六八石余(うち寺領一〇〇石)、永荒が八一石余あり残高は二八七石余。寛文四年(一六六四)には本田高三六〇石・新田高五斗余。

清水村
しみずむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう清水

椿原つばきばる村の東、標高三〇〇メートル台の玄武岩に覆われた平坦面をもつ高台。正保絵図に村名がみえる。

文化年中記録によれば「畝数四町八段九畝」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報