湯屋町
ゆやちよう
[現在地名]堺市熊野町東一丁・熊野町西一丁
大道に面した両側町で南は大小路。大道と大小路の交差点を古来占の辻という。「堺鑑」に「此辻ヲ泉摂境目、南北ノ分地トスル所也」とみえ、安倍晴明が占書を埋めた所で、当時ここの辻占がよく当たったことを記す。大永五年(一五二五)天神社(菅原神社)の神宮寺常楽寺の風呂屋敷跡が宅地化され、住民に払下げられているが、常楽寺が当町北東に隣接することや、湯屋町の町名から当町との関連がうかがえる。このとき住人に対する禁止事項や遵守事項が定められたが、同年正月吉日付の風呂屋敷定禁制条々案文(「堺市史」所収)によると、払下地の請人は火鉢屋・大工といった手工業者などで、彼らの宅地間口は一間半から二間という規模であった。
湯屋町
ゆやまち
[現在地名]水口町元町
滝町の南東に連なり、北裏通の東端に位置する両側町。東は作坂町、南は溝をもって旅籠町に接し、北は古城山へと続く。町名は延宝七年(一六七九)の美濃部水口村検地帳(水口宿文書)および同年の地子赦免帳にみえるのが早いが、おそらく宿駅成立時には存在したと思われる。地子赦免帳にみえる一六軒の屋敷のうち一軒は番屋敷、屋敷地の最大間口は九間四尺余、最小は二間三尺余。
湯屋町
ゆやまち
[現在地名]徳島市銀座・東新町二丁目
新魚町支坊の町人地で、町筋は富田町(新鍛冶屋町)より北の東船場に抜ける伯民小路から南東へ下り、中ほどで南に折れ、新魚町に向かって抜けていた。古くは鵜飼町と称したという(阿波志)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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