出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都中央区の地名。寛永年間(1624-44)に通船のため京橋川から隅田川に通じる堀が開かれ,長さが8丁あったので八丁堀と名づけられたという。明治以後,堀は桜川と改称されたが,昭和40年代に一部を残して埋め立てられた。八丁堀には,元禄年間(1688-1704)以降江戸町奉行所の与力・同心約300人の組屋敷があり,与力は〈八丁堀の旦那〉とよばれ,300坪前後の土地を拝領していた。冠木(かぶき)門などを構えて敷地の奥に住み,一部を儒者や医者に貸していた。同心には100坪ほどの地が与えられていたが,これも一部は町屋敷となっていく。八丁堀を冠する町は八丁堀北紺屋町,同金六町,同水谷町があったが,1869年(明治2)に廃された。町名としての八丁堀は1931年に成立したもので,本八丁堀,水谷町,八丁堀仲町,永島町,日比谷町,幸町,長沢町,元島町などを合わせている。日本橋,銀座の東に隣接し,交通の便もよいため,現在では中小ビルの多い商業・オフィス街となっている。
執筆者:吉原 健一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京都中央区のほぼ中央部にある町名。寛永(かんえい)年間(1624~1644)隅田川に通じる舟便のため堀が掘削され、堀の長さが八町(丁)あったための呼称といわれる。「寛永図」では寺院と武家屋敷があり、元禄(げんろく)年間(1688~1704)には町奉行(ぶぎょう)所の与力(よりき)、同心(どうしん)の組屋敷が支給され、俗に八丁堀の旦那(だんな)とよばれ、町人の畏敬(いけい)の的になっていた。しかし、実際には薄給を補うため敷地の約半分を町人(医者、儒者など)に貸すなどしていた。現在は中小ビルの多い商業地域になっている。東京地下鉄日比谷(ひびや)線の八丁堀駅がある。
[菊池万雄]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…このうち最も著名な江戸の町奉行配下の同心(町同心)について述べれば,定員は中期で南北各100名(幕末には各140名),身分は御家人で,形式上は一代抱えであるが,事実上世襲の職であった。京橋の八丁堀にある組屋敷に居住し,通常30俵二人扶持を給せられた。同心の職掌は,定町廻(じようまちまわり),隠密廻,臨時廻(以上を三廻りという)のように,緋房の十手を持って町中を巡回し犯罪捜査,犯人逮捕にあたる者のほか,年番方(役所全般の取締りや金銭出納),例繰方(刑事判例の調査),吟味方(裁判の審理),牢屋見廻(牢屋の事務監督),赦帳撰要方人別調掛(恩赦),町火消人足改(町火消の指揮)等,警察を中心に行刑,裁判から市政一般にわたる多くの分課があった。…
…幕臣たる与力の身分は,御目見(おめみえ)以下すなわち御家人であるが,石高200石と騎乗の特権を与えられていた。住居は同心と同じく京橋八丁堀に組屋敷を与えられ,このため八丁堀の旦那と呼ばれた。形式上は一代抱えであるが,事実上は世襲の職であって,13,14歳で見習として出仕したのち,与力に採用され,しかも他への転勤はなく一生町奉行所に勤務するものであったから,職務にはよく精通していた。…
※「八丁堀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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