日本歴史地名大系 「湯築城跡」の解説 湯築城跡ゆづきじようあと 愛媛県:松山市石手川下流域(旧温泉郡の大部分)道後村湯築城跡[現在地名]松山市道後公園道後温泉の南一キロにある。中央に低平な分離丘陵があり、周囲に堀をめぐらしている。忽那一族軍忠次第(忽那家文書)のなかに「興国三年三月湯築城責」とあるのが初見である。かつて伊社爾波(いさにわ)岡とよばれた地で、建武年間(一三三四―三八)に豪族河野通盛(のち伊予守護職)が、ここに湯築城をつくって同氏の根拠地とした。この時、丘陵全体を要塞化するため、この地にあった伊佐爾波(いさにわ)神社をいまの冠(かんむり)山の地に移したといい伝えられる。城の構造は二重の堀をめぐらし、東方が追手、西方が搦手であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
国指定史跡ガイド 「湯築城跡」の解説 ゆづきじょうあと【湯築城跡】 愛媛県松山市道後町にある城跡。松山市街地の東部、道後温泉の入り口に位置し、石手川右岸の扇状地に北から延びた丘陵の南端が突き出たところにある。南北350m、東西295mの城域は、中央にある丘陵に郭(くるわ)が配置され、高さ約5mの土塁のある堀を2重にめぐらせていた。発掘調査の結果、武家屋敷跡をはじめ16世紀前半以降の複数の遺構が確認され、輸入陶磁器などが出土した。城は建武年間(1334~38年)に伊予国守護河野氏によって築城されたが、1581年(天正9)以降は土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に攻められ、1585年(天正13)には豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が侵攻し、籠城戦のすえ河野通直(みちなお)は敗れた。その後、小早川隆景を経て福島正則が城主になるが、居城を移したため廃城となる。現在は道後公園の中にある。戦国時代の伊予国の歴史を考えるうえで重要な城館跡であり、2002年(平成14)に国の史跡に指定された。JR予讃線ほか松山駅から伊予鉄道市内電車「道後公園駅」下車、徒歩すぐ。 出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報 Sponserd by