愛媛県松山市周辺の平野。道後平野ともいう。面積は約100km2で,平野には松山市と伊予市の主要部のほか,伊予郡松前(まさき)町,砥部(とべ)町北部,東温市の西端部が立地する。重信川および石手川によって形成された沖積平野で,扇状地性三角州を呈し,松山市吉田浜から伊予市にかけては海岸砂丘が連なる。周辺の山麓には播磨塚,矢取川などの洪積台地が発達し,平野内部には松山城のある勝山(松山。131m)をはじめ,星ヶ岡,天山などの分離丘陵が残る。石手川,小野川,重信川,矢取川の谷口付近には扇状地が発達し,扇端には湧泉がみられる。松山平野の灌漑の特色は,溜池が少なく重信川の伏流水の湧泉に依存するものが多いことである。しかし,重信川の全流域面積445km2に比べて水田が多いため,比較的多雨地帯に属する面河(おもご)川上流部に1965年面河ダムを築造して,農業用水および工業用水が確保されるようになった。
平野には現在の海岸線の約1km内側から条里制の遺構が残っており,市ノ坪(一ノ坪)はじめ条里にちなむ地名もある。重信川および石手川は近世に流路を改修したため,条里制地割りは現在の河川に関係なく区切られている。平野の南部には中央構造線が東西に走り,伊予郡砥部町の砥部川河畔に衝上断層の露頭が見られる。山麓の傾斜地には明治・大正期に梨が多く栽培されていたが,現在はほとんどかんきつ類の栽培に変わっている。一方,果樹栽培と並行して,第2次大戦後,重信川中・下流域では都市向けの野菜栽培が始まり,伊予郡松前町の砂丘地でもカボチャ,タマネギなどが栽培されている。中心をなす松山市の発展に伴って,平野はかつての米作農業地域から,果樹を含む近郊農業地域へと変容を遂げている。松山市周辺の都市化も著しく,砥部町では住宅団地が山麓のミカン園付近にまで進出している。平野東部の温泉郡重信町(現,東温市)には1973年に愛媛大学医学部が開設され,伊予鉄道横河原線沿いの住宅地化も進んでいる。
執筆者:門田 恭一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛媛県中部の中心をなす平野。道後平野(どうごへいや)ともいう。重信(しげのぶ)川、石手(いして)川、小野川、矢取川などからなる沖積平野で、面積約100平方キロメートル。平野の南縁は石鎚(いしづち)大断層崖(がい)、北東は高縄(たかなわ)山地で、花崗(かこう)岩や第三紀層の崩壊地形が多く、平野を流れる河川は河川運搬物が多い。そのため平野周辺の山麓(さんろく)地帯には洪積台地、河岸段丘、扇状地がよく発達している。扇頂には郡中(ぐんちゅう)(伊予市)、原町(はらまち)(砥部(とべ)町)、横河原(よこがわら)(東温(とうおん)市)などの谷口(渓口)集落がある。扇状地の勾配(こうばい)は1000分の10程度で大きく、乏水性台地の伏流水は扇端で湧泉(ゆうせん)地帯となる。この地帯の開発は古く、条里にちなむ地名が多い。平野北部の和気(わけ)、三津浜(みつはま)、重信川河口左岸には数列の砂堆(さたい)があるが、重信川右岸は埋立地で空港や工場地域になっている。荒れ川の石手川、重信川も近世以来幾度か改修がなされた。平野北東部にいくつかの分離丘陵があり、そのうちの一つの勝山(かつやま)(131メートル)に松山城があり、その南側に松山市の主要市街地が広がっている。
[深石一夫]
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