日本歴史地名大系 「湯西川村」の解説 湯西川村ゆにしかわむら 栃木県:塩谷郡栗山村湯西川村[現在地名]栗山村湯西川日向(ひなた)村の北、帝釈(たいしやく)山地の南側、鬼怒川支流湯西川の源流域に位置する。中央部には古くからの温泉が湧出している。集落は高手(たかで)・花和(はなわ)・沢口(さわぐち)・石上(いしがみ)・今淵(いまぶち)・湯平(ゆだいら)・川戸(かわど)・仲内(なかうち)・平沢(ひらさわ)など、東流する湯西川の段丘上に沿って点在する。当村からの往還は、高手から南進して土呂部(どろぶ)峠を越え今市・日光へ向かう経路、湯西川に沿って川治(かわじ)(現藤原町)や会津西街道に通じる経路、平沢から北進して湯坂(ゆさか)峠を越えて三依(みより)郷(現同上)へ向かう経路などがある。東は三依郷芹沢(せりざわ)村(現同上)・西川(にしかわ)村、北は帝釈山地の山々の峰を境に会津。地名は平家の落人がこの地に落延びて生活していたが、ある日、温泉を発見したことによりそれまでよばれていた西川という地名に「湯」の字を付して湯西川と称するようになったという。日光山常行三昧堂新造大過去帳によると、日光山往古社領六十六郷の一つに湯西川郷があり、日光山三六房の一つ十乗坊の寺領であったという。また年月日不詳の「衆徒領三十七郷段銭日記」(二荒山叢書)には「湯西川郷 六百拾八文」とみえる。近世はおおむね日光領。元和六年(一六二〇)の東照宮領目録(日光山御宮方書物之写)に「湯西(川脱カ)村 栗山村」六五二石余とある。寛文六年(一六六六)日光領総検地により、畑・屋敷のみ反別九七町余、高二六〇石余が確定し(「日光御領石高家数人別掃除丁場控」関根矢太郎文書)、以後の高は変わらない。年貢は定免金納で、金二九両余。年貢皆済目録(伴信友文書)などによると湯畑(ゆばた)組・花和組・川戸組・中内組・沢口組という五つの組(それぞれの組に年寄・組頭がいる)があり、年貢金はまずそれぞれの組から名主の所へ納入され、各組に名主から皆済目録が出される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by