栗山村(読み)くりやまむら

日本歴史地名大系 「栗山村」の解説

栗山村
くりやまむら

[現在地名]能代市いわお谷地やち下谷地しもやちいえしたはやしした・栗山・家後いえうしろ後野うしろのかみさわ五十苅沢ごじゆうかりさわたてしたぜにだい杉沢すぎさわ杉沢野すぎさわの

東に小土こづち村、西に竹生たこう村、南に向能代むかいのしろ村がある。東雲しののめ台地の北端にあたり、村居の直下をいし(竹生川)が流れ、その北方に田地が広がる。村の南部は台地で、諸村の入会地であった。

文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「五拾石六斗五升 栗山村」とある。


栗山村
くりやまむら

面積:四二六・七六平方キロ

塩谷郡の西端に位置し、東は藤原ふじはら町、西は標高二〇〇〇メートルを超す鬼怒川源流の山嶺を境に群馬県利根とね片品かたしな村、南も二〇〇〇メートルを有に超える日光連山を境に日光市・今市市、北は二〇〇〇メートル前後の帝釈たいしやく山地を境に福島県南会津郡檜枝岐ひのえまた村・舘岩たていわ村。東西二七キロ・南北二二キロと県下最大の規模を有するが、その大部分国有林を中心とする山林で占められ、しかも全体の七六パーセントが日光国立公園の指定区域に含まれている。帝釈山から東方の明神みようじんヶ岳・葛老かつろう山を結ぶ稜線を境にして、南に鬼怒川水系、北に湯西ゆにし川水系の清流がある。明治二二年(一八八九)町村制施行によって九ヵ村が合併し栗山村が成立、現在に至る。人口は昭和三五年(一九六〇)に四千七五一人とピーク期にあったが、同四〇年代には若者の都市への流出により年々大幅に減少し、同五〇年には二千八四三人となっている。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]日高町栗山

篠垣しのがき村の西、三方みかた盆地の中央部に位置する。慶長六年(一六〇一)六月、栗山村の二三七石余が羽尻はじり(一八一石余)広井ひろい(二六〇石余)殿井とのい(二三二石余)産所さんじよ(八七石余)とともに旗本八木庄左衛門光政に与えられたが(「知行目録写」記録御用所本古文書)、のち(元和七年以前)三〇〇石は武蔵・相模両国へ移された(寛政重修諸家譜)。元和七年(一六二一)に遺跡を継いだ八木勘十郎宗直(のち守直)に、寛永二年(一六二五)当村の一一九石余のほか殿井村(二三二石余)・広井村(二六〇石余)・産所村(八七石余)と他国の二村(三〇〇石)が与えられているので(「徳川家光朱印状写」記録御用所本古文書)、光政の代に他国へ移されたのは当村の約半分と羽尻村であったとみられる。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]四街道市栗山・つくし一―三丁目・さちがおか二丁目

現市域のほぼ中央に位置し、北は内黒田うちくろだ村。東の長岡ながおか村との間には鹿島かしま川支流小名木おなぎ川の支谷が樹枝状に入り込む。集落は台地上にあり、佐倉道が通る。茶の産地として栄えたという。「千学集抜粋」に天文一九年(一五五〇)の妙見宮(現千葉市千葉神社)遷宮にかかわり「栗山」とみえる。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道作帳には長岡村と並記して村名がみえ、高六二〇石、道普請一一町を割当てられている。元禄郷帳では高二六四石余。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]尼崎市栗山町一―二丁目・南塚口町みなみつかぐちちよう一丁目・同七―八丁目・大西町おおにしちよう二―三丁目・三反田町さんたんだちよう一―三丁目・名神町めいしんちよう一丁目

上之嶋かみのしま村の南に位置し、村領中央部を北西から南東に庄下しようげ川が流下する。砂田すなだ宮浦みやうら船子ふなご・ウミジ・小松原こまつばらなどの小字名があった。永禄一一年(一五六八)尼崎を訪れたルイス・フロイスは、「コスモ」という武士の請いにより尼崎から陸路七八レグワの「クリヤマ」と称する村に赴き布教したという(同年一〇月四日「堺発パードレ・ルイス・フロイス書簡」イエズス会士日本通信)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]富山市栗山・南栗山みなみくりやま南央町なんおうちよう

熊野くまの川左岸沿いに位置し、西は惣在寺そうざいじ村など。村内を南北に飛騨街道が通り、伊豆宮いずのみや茶屋があった。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高六一五石余、田方四〇町三反余・畑方七反余、新田高五六石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高五五九石、免四ツ、小物成は野役七二匁・鮎川役二匁。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高四七二石・定免三ツ六歩、新田高一五四石余・平均免七歩三厘余、定小物成は塩野役八七匁余・熊野川役一匁・樋橋川役一匁・草銀納二二匁余・柳差一匁余。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]姫路市手柄てがら

飾西しきさい郡に所属。手柄山の南東に位置し、北は延末のぶすえ村など。船場せんば川が南流する。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)によると、手柄山の南端を三和みわ山といい、この丘に元弘(一三三一―三四)頃まで栗の大木があったのが地名の由来という。位置は不明だが、中世のある時期に栗山構居があり、領主栗山三郎左衛門が別所氏の家人となって住んでいた(播磨鑑)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]境町栗山

下砂井しもいさごい村の南に所在。西は鵠戸くぐいど(現在は水田)上流のヤト田を隔てて蛇池じやいけ村。北と東に平地林が多い。天文二三年(一五五四)の梅千代王丸足利義氏充行状写(野田家文書)に「重而御落居之地 栗山」とあり、野田左衛門大夫の支配を受けた。天正二年(一五七四)一二月二日の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)の「上幸嶋」分に「くり山 野田三郎」とみえ、同年同月一五日の足利義氏制札写(野田家文書)には

<資料は省略されています>

とある。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]八千代町栗山

飯沼新田いいぬましんでんから崎房さきぶさ村・鴻野山こうのやま(現石下町)の間を北上するヤト田の奥東側台地上に位置。西は大間木おおまぎ村。中央部に西から食込む支谷が北と南の台地に二分。北の台地上には観音堂・仏性ぶつしよう寺を中心に集落が形成され、南の台地は畑作地が開ける。その東南部には一七基からなる矢尻やじり古墳群(城山古墳群)と二重の堀跡がある舌状台地があったが、昭和四〇年(一九六五)前後の土取りで古墳二基を残して消滅。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]糸魚川市栗山

根小屋ねごや村の南東。村の背後にじよう山がある。正保国絵図に村名があり、寛文七年(一六六七)の高帳によると、本田高七八石八斗余(糸魚川市史)。天和三年郷帳では高六三石五斗余。同年(一六八三)の願書でみると、高七八石八斗余のうち四二石二斗余を川欠け・山崩れなどで引いてもらったが、残地が七ツ三分余の高免で迷惑していると訴えている(糸魚川市史)。貞享二年(一六八五)の吉利支丹改帳によれば、本百姓は四軒で、男三二・女三一、脇百姓は八軒で、男三二・女三四、本百姓には庄屋が、脇百姓には名子二軒が含まれ、馬一〇・牛一二がいた(同書)。隣の大村根小屋村との入会山論争は元禄一五年(一七〇二)に始まり、泥沼化し、翌年には檀那寺である根小屋村広伝こうでん寺・勝蓮しようれん寺から離れ、同じ真宗の糸魚川新田しんでん西性さいしよう寺へ所属を替えたいという願書を出すまでになった。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]滑川市栗山

早月はやつき川が形成した新扇状地扇央部の東部に位置し、西は八大窪新はちおおくぼしん村、東は早月川を境に有山ありやま(現魚津市)。「早月加積郷土誌」によれば、村の開祖は藤右衛門・次右衛門・宗右衛門・甚吉の四家で、小祠を建立して応神天皇を祀ったと伝える。元亀二年(一五七一)松倉まつくら(現魚津市)落城のとき家老石坂太郎左衛門が当地に移住、開発に努めたという(同書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二二七石、免五ツ三歩、明暦三年(一六五七)の新田高三石、小物成は野役二〇匁・漆役四匁・鮭役一匁・鱒役三匁・鮎役一匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は次右衛門、家数二七(百姓一七・頭振一〇)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]伊奈村東栗山ひがしくりやま

足高あたか村東南、牛久うしく沼西岸の舌状台地中央を占める。村域に栗山城跡があり、戦国期に小田氏与党の岡見氏が築城し、小田支族月岡氏が在城し、小田おだ(現筑波町)支城の役割をも果していたが、天正年間(一五七三―九二)下妻城主多賀谷氏の侵攻により落城した(野口豊前戦功覚書写)。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本勝田大五郎の知行地で村高三四七・五三石。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]下仁田町栗山

南東境に稲含いなふくみ(一三七〇メートル)がそびえ、山中より流出する栗山川が村央を北西流する。東は秋畑あきはた(現甘楽町)、北は吉崎よしざき村、西は青倉あおくら村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高七四石七斗余はすべて畑方。天保九年(一八三八)の高一六二石余、家数七二・人数二六五、すべてが農業のみであった(「諸商人渡世書上帳」桜井文書)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]志賀町栗山

遍照へんじよう岳の西麓、仏木ほとぎり川に合流する栗山川の上流部にある山村。地内宇佐八幡神社の社伝では、建武二年(一三三五)直海のうみ高位たかい村から分村したという。元和二年(一六一六)の高一四〇石余、苦竹役二・五匁、役棟一二(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳の高一一四石余、田五町八反余・畑一町七反余、免三ツ七歩七厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一三八石、免四ツ五歩、新田高九石、小物成は山役一一五匁・苦竹役一匁、鳥役二匁(出来)、紙役二八匁(三箇国高物成帳)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]下田村栗山

五十嵐いからし川左岸段丘上にあり、南東に塩野淵しおのふち村、北に名下みようげ村がある。正保国絵図に村名がみえる。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では三六石一斗余・家八戸。文化一一年(一八一四)の森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)では家数一九、ほかに肝煎一。延享三年(一七四六)当村・塩野淵村・大谷村の入会地であるおお山に名下村など三ヵ村が新たに入会権を主張した山論があったが、翌年当村など三ヵ村の主張が認められている(名下区長文書)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]広神村栗山

破間あぶるま川右岸、東は田中たなか村、西は小平尾おびろう村。正保国絵図に村名がみえ、高二四石余。天和三年郷帳では高三七石余、ほかに同所新田三石七斗余がある。年不詳の糸魚川領魚沼郡二十三ケ村御水帳写(石野武教氏蔵)では田二町二反余・畑二町余・青苧畑一反余、漆木二本。新田分は下田・下々田三反余。家数三二、男女とも各七五。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]松戸市栗山

下矢切しもやきり村の南にあり、村域は江戸川左岸の低地および下総台地西端部に展開する。集落は台地の斜面下に形成され、村内を松戸と市川を結ぶ往還が通る。元禄一二年(一六九九)の小金領野馬法度請書に村名がみえ、高一七〇石、すべて幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。松戸宿の定助郷を勤め、中野なかの牧付人足・印西いんざい牧付人足各九人を負担した(天保一〇年小金五牧捕馬等人足割控)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]横芝町栗山

横芝村の南東に位置し、東を栗山川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇五石。正保国絵図でも同高。元禄郷帳では高三〇九石余、ほかに栗山新田七八石余が記されている。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数八〇、三卿の清水領と旗本大久保・逸見の相給。旧高旧領取調帳では大久保領一三七石余・逸見領一五六石余、ほかに栗山新田として幕府領一〇〇石余。


栗山村
くりやまむら

[現在地名]院内町栗山

恵良えら川とその支流あまり川の最上流部に挟まれた山間部に位置し、南と東は小平こびら村、北は余村。小倉藩元和人畜改帳では高二四石余、家数四・人数一四(うち百姓二・名子二)、百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には田所組に所属し、人数一五(「人畜帳」庄家文書)


栗山村
くりやまむら

[現在地名]谷田部町西栗山にしくりやま

中野なかの村の西に所在。古くは栗山新田村といい、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には谷田部藩細川氏領で村高八六・五三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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