日本歴史地名大系 「瀬木村」の解説 瀬木村せぎむら 愛知県:常滑市瀬木村[現在地名]常滑市瀬木町・千代(ちよ)ヶ丘(おか)・本(ほん)町・陶郷(とうごう)町・栄(さかえ)町南北に走る西浦(にしうら)街道沿いに集落が形成、東西に田畑が展開。北の北条(きたじよう)村との境界は複雑に入組んでいる(文政二年の村絵図)。東は成岩(ならわ)村(現半田市)・前山(まえやま)村、西は伊勢湾、南は常滑村に接する。「寛文覚書」によれば、概高五一一石余、田二五町四反余・畑八町四反余、家数七五、人数三三二。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)では元和六年(一六二〇)に山下信濃守の給知であった。 瀬木村せきむら 長野県:飯山市瀬木村[現在地名]飯山市大字豊田(とよた)五輪峰(ごりんみね)東麓にあり、南は五荷(ごか)村、北は蕨野(わらびの)村に接する。古くは関村と書いた。年月は不詳だが古くからある深沢(ふかさわ)組と、万治年間(一六五八―六一)の開発で明治三年(一八七〇)以降に集落ができた相好(あいよし)組がある。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「関村」とあるのが初見。 瀬木村せぎむら 三重県:員弁郡北勢町瀬木村[現在地名]北勢町瀬木飯倉(いぐら)村の西、員弁川の東、同支流の鎌田(かまた)川の北に位置する。村名の由来を「五鈴遺響」は「水涯ニシテ堰ノ義ヲ名トセリ」と記している。江戸時代は桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)では「上木(阿下喜)内」、元禄郷帳・天保郷帳では「阿下喜村枝郷」と注があり、阿下喜(あげき)村から分離・独立した村である。「員弁郡郷土資料」は寛永一七年(一六四〇)に分離したとする。天明四年(一七八四)手控帳によると、田二町七反八畝二歩、畑三町三反六畝一八歩、畑一町三反八畝二〇歩、田成とあり、畑地のほうが多い。 瀬木村せぎむら 愛知県:豊川市瀬木村[現在地名]豊川市瀬木町犬之子(いんのこ)村の西に並び、豊川の旧河川敷にある。「三河国二葉松」に瀬木村古城として、牧野古白の居住を伝えるがつまびらかでない。「睦美村誌」に「古時真木村、永享ノ頃ヨリ瀬木村ト称ス」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by