日本歴史地名大系 「常滑市」の解説 常滑市とこなめし 面積:四九・五七平方キロ知多半島のやや南にあり、西海岸側に位置する。市域西部に住居地が偏在し、東部は丘陵が広がる。常滑の名は「尾張名所図会」にある、名古屋の天王(てんのう)坊旧蔵の大般若経巻七〇奥書(応永四年筆写)にみえる「尾張国智多郡堤田ノ庄常滑ノ郷」の記載が正確であるとすれば、最も古い。〔原始・古代〕知多市の南端と常滑市の北端にまたがる大野(おおの)谷には、縄文・弥生の遺跡があり、縄文中期の石瀬(いしぜ)貝塚が市内では唯一の縄文遺跡。弥生遺跡には、市中央部常滑の谷の椎田口(しいだぐち)・常石(とこいし)、樽水(たるみ)の谷の山之神(やまのかみ)、市の南部の城塚(じようづか)などがあり、いずれも中期以降。古墳時代に入ると、市南端の水戸狭間(みとはざま)遺跡があり、須恵器や平安時代の陶器が出土する。大野谷の久米(くめ)に、マス池を中心に条里制の遺構と推定されるものがある。西之口(にしのくち)には製塩遺跡があり、古くから塩が特産物だったと思われる。「和名抄」の知多郡五郷のうち、当市はほぼ贄代(にえしろ)郷の西部分にあたる。白鳳期創建と伝える高讃(こうさん)寺は、初め樽水の御嶽(みたけ)山にあったが、その後大坊(だいぼう)を経て現在地に移った。大坊からは平安期と推定される布目平瓦が出土。寺宝に藤原期の木造鉈彫聖観音菩薩立像(県指定文化財)がある。〔中世〕市域の荘園は、北から大野(おおの)庄・堤田(つつみた)庄・枳豆志(きずし)庄があげられる。北端が知多市南部に及ぶ大野庄は、大野東竜(とうりゆう)寺蔵涅槃像の裏書銘に「正応六年大野庄」とあるのが初見。大野判官代源頼清・頼時父子が支配していたが、承久の乱で幕府側に収公された。堤田庄の領主は京都の仁和(にんな)寺で、常滑・半田両市の古窯跡にある軒平瓦と同じものが仁和寺からも出土した。枳豆志庄は藤原氏から足利尊氏へと領主が代わり、建武四年(一三三七)には園城(おんじよう)寺(現滋賀県大津市)に寄進される(愛知県史)。鎌倉末から室町期には、三河の一色氏が大野庄を押え、観応元年(一三五〇)には一色範光が宮山(みややま)城(大野城)を築いて城主となった。一色氏はやがて知多全域を支配し、代々三河国を中心に守護を勤めた。応仁・文明の乱のあと一色氏に代わって、大野には佐治氏、常滑には水野氏が進出した。佐治氏の名は明応六年(一四九七)の西之口神明社の棟札に「宮山之城主佐治伊賀守為永」とみえる。佐治氏四代与九郎の最初の妻は、のちに徳川秀忠夫人になった小督である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常滑市」の意味・わかりやすい解説 常滑〔市〕とこなめ 愛知県南西部,知多半島西岸に位置する市。 1954年大野,鬼崎,常滑,西浦の4町と三和村が合体し,市制。古くから陶器の産地として知られ,常滑焼 (日本六古窯の一つ) として有名。 13年常滑線の開通によって窯業の生産,販売が近代化され,第1次世界大戦後は陶管の黄金時代を現出した。ほとんどが中小企業で,陶管類をはじめとして玩具,植木鉢などを生産する。一方大工場では衛生陶器,タイル,建築用陶製ブロックの生産も多い。 3000基の窯跡のある籠池古窯跡は名高い。古くからある知多木綿と酒造でも知られる。北部の大野は近世における江戸,大坂方面への廻船の根拠地でもあった。農村部では果樹,野菜栽培が,海岸ではノリの養殖が行われる。大野,坂井海水浴場がある。南知多県立自然公園に属する。面積 55.90km2。人口 5万8710(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by