日本歴史地名大系 「火打村」の解説 火打村ひうちむら 兵庫県:川西市火打村[現在地名]川西市火打一―二丁目・美園町(みそのちよう)・中央町(ちゆうおうちよう)・松(まつ)が丘町(おかちよう)・丸の内町(まるのうちちよう)・花屋敷(はなやしき)一丁目・栄町(さかえまち)・日高町(ひだかちよう)・萩原(はぎわら)一丁目・絹延町(きぬのべちよう)・霞(かすみ)ヶ丘(おか)一―二丁目小戸(おうべ)村の北西、石切(いしきり)山の東に位置する。地内に八(はち)ノ坪(つぼ)・九(く)ノ坪(つぼ)の地名がある。多田(ただ)院より伊丹・大坂への往来道筋の南山際に火打石の大石があり、村名はそれに由来するという(天保二年「村明細帳」西良家文書)。近くの石切山から火打石が産出したといわれる。火打屋(ひうちや)村の称もあった。地内の深山(みやま)は文明一八年(一四八六)の多田庄段銭結解状(多田神社文書)に新田方としてみえる「深山分四段大」に比定され、うち小は不作で、一三八文の段銭を課せられている。 火打村ひうちむら 岐阜県:益田郡下呂町火打村[現在地名]下呂町火打和佐(わさ)村の南東、東から流れ北西へ向きを変える門和佐(かどわさ)川沿いにある。慶長一〇年(一六〇五)五月二三日の実蔵坊飛騨檀那目録案(経聞坊文書)に「ひうち 小三郎」などの名がみえる。元禄飛騨国検地反歩帳では高三二石余、田二町三反余・畑一町三反余。「飛騨国中案内」によれば免四割七分四厘内、家数一七、うち寺一・百姓一六。椴・栂・檜のあるやけ山は御留山、大たな口より東の門和佐村境までは元伐山などであった(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)。天明八年(一七八八)の村明細帳(同研究所蔵)によれば高六一石余、家数二一・人数一五六、馬一八。御林山一四ヵ所があった。名主は和佐村が兼帯した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by