加地子(かじし)の別称。1295年(永仁3)12月16日,経実なるものが紀伊国那賀郡名手荘内の田地1反を売却した際の売券に,買得者尭信房に対して毎年6斗の〈加地子〉を懈怠(けたい)なく運上することを述べたうえ,〈もし片子といい下地といい違い目あるときは本直(ほんじき)(売却値段)を弁ずべし〉と記す(高野山文書)。片子が加地子をいいかえたものであることがわかる。1384年(元中1・至徳1)5月25日付の阿闍梨有算田地寄進状は,彼が有する名田40歩を高野山御影堂に寄進したときのものであるが,これには毎年〈片子〉6斗の納入を誓約した作人孫五郎の請文(うけぶみ)が添えられており,有算はもし孫五郎が片子を難渋すればただちに彼の作職を取り放たるべき旨を記している(同文書)。これまた片子が作人より名主に納入されるべき得分すなわち加地子であることを示すものである。
執筆者:須磨 千穎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
…加地子領主)が広く存在したのである。中世の荘園では,名主が自己の名田畠に課される年貢の負担者であると同時に,しばしば一部の田畠を作人にあて作らせ,彼から一定の中間得分を収取したが,これが加地子で,また加徳,片子(かたこ)などとも称した。銭納形態をとる場合加地子銭ともいう。…
… 一方,この間にも荘園支配者による検注は行われ,新田・隠田の掌握の努力も放棄されたわけではなかったが,年貢・公事は早くから固定化する方向にあり,名主が地主(じしゆ)として加地子を収取することも鎌倉期からみられた。個々の田畠の名主職に付随するこうした加地子得分(片子(かたこ)ともいう)の売買もさかんに行われ,名主の下での耕作者,作人も加地子の一部を取るようになると,作人職,作職(さくしき)も現れてくる。こうした売買を通じて,室町期から戦国期にかけて,下級の荘官(小領主と規定される),上層名主,在地の寺庵などが加地子得分権を集積し,さきの村落の中心的な立場に立ち,村法を定め,独自に地下検断を行うようにもなってきたのである。…
※「片子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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