日本歴史地名大系 「牧原村」の解説 牧原村まきのはらむら 山梨県:北巨摩郡武川村牧原村[現在地名]武川村牧原釜無川の支流大武(おおむ)川の扇状地上に位置し、北に大武川、東に釜無川、南に小武(こむ)川が流れ、馬の放牧に適しかつ要害の地である。地元では「まぎのはら」と発音する。甲州道中が韮崎宿から台(だい)ヶ原(はら)宿(現白州町)へ南北に通り街村を形成する。「延喜式」にみえる甲斐三御牧の一つ真衣野(まきの)牧がおかれたための地名という。武田氏の祖信義の五世の孫一条源八時信は八男の八郎貞家を牧原の地に封じ、貞家は牧原の八郎と号し、武川衆牧原氏の祖となったという。「一蓮寺過去帳」の文和三年(一三五四)七月二二日供養の眼阿弥陀仏に「牧原」の注記がある。天正一〇年(一五八二)一二月七日に武田氏旧臣武川衆の小沢善大夫に宛てた徳川家康印判状写(記録御用所本古文書)に「牧原内飯田分四貫文・同所山口分弐貫文」がみえる。 牧原村まきばるむら 大分県:大野郡野津町牧原村[現在地名]野津町烏嶽(うがく) 牧原広原(ひろわら)村の北、蛇行しながらほぼ西流する野津川北岸にある。南東で同川に都松(みやこまつ)川が合流する。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には牧原村が黍野(きびの)村など三ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に牧ノ原村とみえ、高二二石余。下ノ村組に属した。また当村のうちの田良木(たらぎ)は野津院検地帳写に田良木村とあって牧原村など三ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳にも村名がみえ、高四石余。 牧原村まきばるむら 大分県:大野郡緒方町牧原村[現在地名]緒方町小宛(おあて) 牧原桑津留(くわづる)村の南東にある。緒方川が当村南東で東から北へ大きく向きを変え曲流する。正保郷帳に村名がみえ、田高三七石余・畑高三四石余、緒方郷に属した。旧高旧領取調帳では高八五石余。安永七年(一七七八)には小宛組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。犬馬場(いぬばば)に緒方川からの取入口のある広瀬(ひろせ)井手は宝永年間(一七〇四―一一)の開削といい、初め上流辻(つじ)村の普済寺(ふさいじ)堰から取入れていた。 牧原村まきばるむら 大分県:大野郡大野町牧原村[現在地名]大野町後田(うしろだ) 牧原西(まきばるにし)岡(おか)村の北、茜(あかね)川北岸にある。犬飼(いぬかい)道が北東から南西に通る。正保郷帳に村名がみえ、田高三三石余・畑高二五石余、井田(いだ)郷に属し、柴山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高一三九石余。安永七年(一七七八)には片島組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by