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牧野成貞 まきのなりさだ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

牧野成貞
まきのなりさだ

[生]寛永11(1634).江戸
[没]正徳2(1712).6.5. 江戸
江戸時代初期の下総関宿藩主。上野大胡 (おおご) 藩主牧野儀成 (または成儀〈なりのり〉) の次子徳川綱吉が館林藩主のとき寛文 10 (1670) 年その家老となり,綱吉が将軍となると天和1 (81) 年 12月最初の側用人となり1万 3000石で大名に列した。のち4万石加増,同3年関宿藩主となり,さらに2万石加増,7万 3000石となった。元禄8 (95) 年隠居し,綱吉没後は剃髪して大夢と号した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

牧野成貞 まきの-なりさだ

1634-1712 江戸時代前期の大名。
寛永11年生まれ。旗本牧野儀成(のりなり)の次男。寛文10年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩家老となり,延宝8年藩主徳川綱吉(つなよし)の将軍就任で,1万石を加増されて諸侯に列した。天和(てんな)元年側用人(そばようにん),3年下総(しもうさ)関宿(せきやど)藩(千葉県)藩主となる。のち加増され7万3000石。綱吉の死後,剃髪(ていはつ)して大夢と号した。正徳(しょうとく)2年6月5日死去。79歳。初名は成恒(なりつね)。通称は兵部,蔵人。備後守(びんごのかみ)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

牧野成貞

没年:正徳2.6.5(1712.7.8)
生年:寛永11(1634)
江戸中期の幕臣,大名。通称は蔵人,兵部。諱は初め成恒という。幕臣で,のち徳川綱吉の神田館の家老となった越中守儀成の次男。万治3(1660)年父の遺跡の内2000石を与えられて,父同様徳川綱吉に仕え,寛文10(1670)年神田館家老に昇進して3000石を領し,同年従五位下備後守に叙任。延宝8(1680)年主君綱吉の将軍家相続に伴って幕府側衆となり,同年1万石を加増されて大名に取り立てられた。翌天和1(1681)年には新設の側用人に昇って従四位下に叙され,2年2万石,3年に再び2万石を加増されて下総国関宿城主となった。さらに貞享2(1685)年侍従に進み,元禄1(1688)年に綱吉が成貞の屋敷を訪れた際にも2万石を加増されて7万3000石を領することになったが,8年に隠居し,宝永6(1709)年綱吉死去後は大夢と号した。性格が篤実であったため,綱吉から重用されたという。

(深井雅海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

まきのなりさだ【牧野成貞】

1634‐1712(寛永11‐正徳2)
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。父儀成(のりなり)は綱吉付となり館林藩家老。成貞も1670年(寛文10)家老となり,従五位下備後守に叙任。80年(延宝8)綱吉の将軍就任に従って幕臣となり,以後側近として栄進。81年(天和1)側用人,従四位下に昇る。83年5万3000石の下総関宿城主となる。85年(貞享2)侍従に進み,88年(元禄1)2万石加増。綱吉やその生母桂昌院を私邸に迎えることがしばしばであった。

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世界大百科事典内の牧野成貞の言及

【側用人】より

…このときまで近侍の最高の職は側衆で,大名が就任することもまれではなかったが,旗本役で,その地位は若年寄の下であった。5代将軍徳川綱吉は就任の翌年この職を設け,館林藩主時代の家老牧野成貞をこれに登用し,政務に関し上意,下問あるいは上申など表方との取次ぎに当たらせ,また側近として意見の具申を行わせた。成貞は官位は従四位下侍従に昇り,石高も逐次加増されて7万3000石,下総関宿城主となり,行列に持槍2本を許されるなど老中同格の待遇を受けたので,近侍の地位はいちじるしく高まった。…

※「牧野成貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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