日本大百科全書(ニッポニカ) 「狭山藩」の意味・わかりやすい解説
狭山藩
さやまはん
河内(かわち)(大阪府)、近江(おうみ)(滋賀県)両国内に1万石余を領有した譜代(ふだい)小藩。初代藩主北条氏盛(うじもり)は小田原城主北条氏直(うじなお)の養子で、小田原役後の1591年(天正19)氏直の遺領下野(しもつけ)国(栃木県)内4000石を、1600年(慶長5)実父氏規(うじのり)の遺領河内国6900石を継ぎ、1616年(元和2)2代氏信(うじのぶ)が河内狭山(大阪府大阪狭山市)に陣屋を建て、本拠を大坂久宝寺(きゅうほうじ)町(大阪市中央区)から移した。氏宗(うじむね)、氏治(うじはる)、氏朝(うじとも)、氏貞(うじさだ)、氏彦(うじひこ)、氏昉(うじあきら)、氏喬(うじたか)、氏久、氏燕(うじよし)、氏恭(うじゆき)と12代にわたり在封。この間、藩地はたびたび変動したが、5代氏朝のとき近江、河内両国内にまとまる。6代氏貞のとき藩政が混乱、1760年(宝暦10)7代氏彦に至って家中騒動に発展した。8代氏昉、10代氏久は軍用方や農兵隊を設け、軍費を蓄えて百姓一揆(いっき)、国内政争などに備え、11代氏燕は凍り豆腐の専売制を実施したが、軍費と藩債がかさみ、12代氏恭は1869年(明治2)廃藩置県を待たず藩知事を辞任、堺(さかい)県に合併された。
[藤本 篤]