玉井村(読み)たまのいむら

日本歴史地名大系 「玉井村」の解説

玉井村
たまのいむら

[現在地名]大玉村玉井

現大玉村の南東部および西半分を占め、南は羽瀬石はぜいし(現本宮町)、西は石筵いしむしろ(現郡山市)北西の境に安達太良山和尚おしよう山がそびえ、そこから流れる河川扇状地には広大な水田が広がる。集落は現県道石筵―本宮もとみや線沿いを中心に形成されている。玉井の地名は井戸から玉が出たことに由来すると伝え、「相生集」には「相応寺の東南十町ばかりに玉井といふ井あり、今菰蒲なんど生じ井の形はなし」とある。宝徳四年(一四五二)年紀を有する相応そうおう寺薬師如来銘に「奥州安達郡西根玉井 云 阿陀多羅山相応寺」とみえる。中世には玉井館があり、大河内(玉井)日向守が居城していたが(積達古館弁)、天文一六年(一五四七)二月、二本松畠山義氏は田村隆顕・石橋尚義とともに安積あさか郡を攻め、玉井氏は没落した(「伊達正統世次考」同月一七日条)。天正一六年(一五八八)三月、伊達勢の攻撃をうけ「玉井日向守為始、三百余人討取候」とあるように館は滅び、伊達氏の支配下となった(同月二四日「伊達政宗書状」伊達家文書)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に玉井とみえ、高三千二七石余、この頃は蒲生家臣の松下甚介・堀伝内・金十介・岡左内・中塚兄弟・栗作丞の知行地であった。

玉井村
たまのいむら

[現在地名]八木町字玉ノ井

東と南は八木島やぎしま村、北は鳥羽とば村・室河原むろがわら村、西は木原きわら村・池之内いけのうち村。東南部は水田地帯で北から西にかけては山地である。京街道の山裏にあたる寒村。園部藩領。

西方山中に二つの池があり、玉ノ井とよんでいたと伝える。一つは現存する大鳥羽おおとば池、他はふちとよばれる山麓部湿地がそれにあたると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報