生駒親正(読み)いこまちかまさ

改訂新版 世界大百科事典 「生駒親正」の意味・わかりやすい解説

生駒親正 (いこまちかまさ)
生没年:1526-1603(大永6-慶長8)

安土桃山時代武将。親重の子。美濃国土田に生まれる。織田信長豊臣秀吉に仕え,近江国高島,伊勢国神戸,播磨国赤穂の領主を経て,1587年(天正15)讃岐国を支配し,高松城を築城した。また,堀尾吉晴,中村一氏と中老職を務めた。関ヶ原の戦では西軍に属し丹波出兵,敗戦後隠れたが,長男一正は東軍に属し,讃岐一国を安堵される。のちに許されて,高松に没した。
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朝日日本歴史人物事典 「生駒親正」の解説

生駒親正

没年:慶長8.2.13(1603.3.25)
生年大永6(1526)
戦国・江戸初期の武将。通称は甚助,官途は雅楽頭。名を正成,近世,近規,近親と変え,最後に親正と名乗った。美濃国土田の生駒親重の子。母は美濃の曾根氏。永禄9(1566)年,織田信長に仕え,のち豊臣秀吉に従って,雑賀攻め,山崎の戦,賤ケ岳の戦など,秀吉の主な戦いに従軍して戦功をあげた。その間,近江国高島2万3000石,播磨国赤穂6万石などを経て,讃岐一国を与えられて高松城を築いている。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,秀吉の旧恩から西軍に属し出兵,のち山城国槙尾に隠退した。しかし子一正が東軍についていたので許されている。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「生駒親正」の解説

生駒親正 いこま-ちかまさ

1526-1603 戦国-江戸時代前期の武将。
大永(たいえい)6年生まれ。織田信長,豊臣秀吉につかえ,諸戦に活躍。天正(てんしょう)15年(1587)讃岐(さぬき)(香川県)15万石余の領主となり,のち高松城をきずく。関ケ原の戦いでは西軍に属したが,東軍にくみした子の一正(かずまさ)に免じてゆるされた。慶長8年2月13日死去。78歳。美濃(みの)(岐阜県)出身別名に正成,近世など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の生駒親正の言及

【讃岐国】より

…【棚橋 光男】
[近世]
 1585年(天正13)の豊臣秀吉の四国征伐で,讃岐には仙石秀久が入部してきた。のち尾藤知宣に代わり,87年には生駒親正が讃岐15万石に封ぜられた。親正は香川郡野原荘の海浜に高松城を,また西讃の支城として那珂郡亀山に丸亀城を築いた。…

【高松[市]】より

…人口33万1004(1995)。讃岐平野東部にあたる高松平野のほぼ全域を占め,香東(ごうとう)川河口東岸に発達する中心市街地は,16世紀末生駒親正が城を築き,またのちに松平頼重が高松藩万石の藩主となって入封して以来,城下町として栄えた。明治維新後1888年に香川県が愛媛県から分離して成立するまで曲折を経たが,それ以後県都として発展した。…

※「生駒親正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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