用村(読み)ようむら

日本歴史地名大系 「用村」の解説

用村
ようむら

[現在地名]大江町三郷さんごう

最上川中流右岸の狭い河岸段丘上に集落があり、そのほかは山地である。西は最上川を境にして左中さちゆう(現朝日町)。北の深沢ふかさわ村との境には、カラスまる山から延びる尾根があり、最上川に面して比高一七〇メートルの断崖があり、明神断崖みようじんはげとよばれる。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領、文政六年(一八二三)陸奥白河藩領、慶応二年(一八六六)陸奥棚倉藩領。寛永元年(一六二四)とみられる元中山玄蕃頭領一一ヵ村のなかに、高二一一石余とある(「最上盛衰実録」西川町史資料)。寛永一三年の保科氏領知目録の高一七八石余。正保郷帳では田方八七石余・畑方九〇石余。寛文一二年(一六七二)の検地帳写(用区有文書)では田五町七反余・畑一町二反余で、これに山林五〇町余があった。


用村
ゆむら

[現在地名]笠利よう

笠利かさん村の北に位置し、集落は海に臨む。笠利間切の笠利方のうちで、ユウともいう。安良あらほ川の遺跡から平底深鉢形土器片が出土したほか、古い葬制を示すトフル(納骨堂、風葬)跡、用墓地のハマヤ、珊瑚礁の板石墓がある。用のホジョロメ(首長)須野しののホジョロメが格闘、両者ともに切腹して果て、ニヤーディ鼻で赤い火になって燃続けたという伝承がある。「大島私考」に笠利方七ヵ村のうちとして「用村」とみえ、高八八石余、うち享保内検後の開地は五斗余。文化一三年(一八一六)唐船が笠利間切の用村に漂着、破船していたが、乗組員一一三人が船頭方と総官方に分れて対立していたため、長沼ながぬま宇天うてんに分けるなど対処したところ、無事琉球に送りとどけることができたという(連官史)


用村
ようむら

[現在地名]西脇市富吉南町とみよしみなみちよう

平野ひらの村の北に位置し、東は津万井つまい(現黒田庄町)慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主変遷西田井にしだい村に同じ。正保郷帳では田方一五五石余・畑方六石余、「山役有」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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