山野辺村
やまのべむら
現町域の北東、須川西岸に位置し、山形盆地の南西部にあたる。山辺とも記した。古代最上郡山辺郷(和名抄)、中世山辺庄の遺称地で、戦国期には最上氏一族の山野辺氏の居城(山野辺城)が置かれ、同城の城下として早くから町場も形成されていたと考えられる。近世初期、北接する高楯村地内に高楯正福ゆかりの高楯城と山野辺義忠が完成させた山野辺城のおのおのの城下は元和八年(一六二二)の最上氏改易以後は近隣の商業の中心地として一体となって発展した。船町河岸(現山形市)に近く、同河岸を移出入する物産の集散・中継場所として好適な位置にあった。船町河岸より高楯車ヶ淵河岸までは船で上り、そこで渋江堰の綱引小舟に積替えられ、舟引人夫が引いて橋元で陸揚げするという輸送方法は明治まで続いていた。
山野辺村
やまのべむら
[現在地名]佐原市山之辺
下総台地北端部、玉造村の南西に位置する。東部を成田道が通る。北西の森戸村と西の大戸村方面に谷津田が開け、丘陵上に集落が形成されている。中世は大戸庄に属した。応永二〇年(一四一三)九月一七日の大戸大禰宜知行分田数注文(香取文書纂)に「四斗四升四合 山のへ」とみえる。文明二年(一四七〇)六月一九日の胤慶判物(東京大学史料編纂所影写本香取文書)に「大戸庄山野辺村内熊野神領屋敷畠田数壱町弐段」、永正一〇年(一五一三)一〇月一三日の胤縁書状(同文書)には「大戸庄山辺熊野神田」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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