日本歴史地名大系 「西脇市」の解説 西脇市にしわきし 面積:九六・七二平方キロ(境界未定)県中央部のやや南東寄り、中国山地が南の播磨平野へ移るところに位置する。東は篠山市、南は加東(かとう)郡社(やしろ)町・滝野(たきの)町と加西市、西は多可(たか)郡八千代(やちよ)町・中(なか)町、北は同郡黒田庄(くろだしよう)町。加古川上流にあたり、市域南部で加古川本流と支流杉原(すぎはら)川・野間(のま)川が合流する。山林・原野が面積の約七〇パーセントを占める。主要道は中央部東側を国道一七五号、中央部西側を国道四二七号が南北に通る。JR加古川線も市域を南北に貫いて走り、西脇市・新西脇・比延(ひえ)・日本(にほん)へそ公園(こうえん)の四駅がある。〔原始〕旧石器時代および縄文時代の遺物は大池(おおいけ)遺跡から井島II式とされる細石器、富吉上(とみよしかみ)・富吉南(とみよしみなみ)各遺跡から縄文中期末の土器片、ハゼノ木(き)遺跡から後期の土器片が発見されている。弥生時代中期の遺跡数は大幅に増加し、とくにハゼノ木・富吉上・富吉南各遺跡は中世まで継続する拠点的集落である。古墳時代の集落跡はほかに日野高芝(ひのたかしば)遺跡・北門(きたかど)遺跡などがある。前期古墳では滝(たき)ノ上(かみ)二〇号墳が発掘されている。また岡之(おかの)山の山頂に全長約五二メートルの岡之山(おかのやま)古墳がある。後期群集墳には前期古墳の周辺部や高松(たかまつ)・坂本(さかもと)・寺内(てらうち)各古墳群など、二〇基前後の古墳群が一〇群ほどある。このうち比延古墳は積石塚で、キツネ塚(づか)古墳は横穴式石室に組合せ式家形石棺を納めている。〔古代〕市域は律令時代の多可郡の南部および東部にわたり、「和名抄」記載の多可郡那珂(なか)郷南部の一部と蔓田(ほうだ)郷・資母(しも)郷の全域にあたる。「播磨国風土記」記載の里名との関係は資母郷は都麻(つま)里、蔓田郷は法太(ほうだ)里に比定できる。平城京二条大路跡出土木簡には蔓田郷から送られた白米の荷札三点がある。「延喜式」神名帳の多可郡六座のうち「大津乃命(オホツノミコトノ)神社」が嶋の大津(しまのおおつ)神社、「天目(アメマ)一ノ神社」が大木(おおぎ)町の天目一(あめのまひとつ)神社に比定される。古代寺院では野村(のむら)町の上(うえ)ノ段(だん)廃寺が八世紀代の建立と推定され、この地域が都麻里の中心地と思われる。この南西約一・二キロにある八坂(やさか)町の八坂廃寺では奈良時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土している。 西脇市にしわきし 2005年10月1日:西脇市と多可郡黒田庄町が合併⇒【黒田庄町】兵庫県:多可郡⇒【西脇市】兵庫県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西脇市」の意味・わかりやすい解説 西脇〔市〕にしわき 兵庫県中部,加古川中流域と支流杉原川の流域に広がる市。 1952年西脇町と日野村,重春村,比延庄村の3村が合体して市制。 1954年芳田村を編入。 2005年黒田庄町と合体。江戸時代からの播州先染織の中心的生産地として知られる。製品の先染綿織物は世界各地に輸出されている。周辺の農村部では果樹,野菜栽培や酪農,和牛飼育などの多角経営がみられる。ほかに釣り針の産地としても有名。東経 135°と北緯 35°の交点にあたる地。東南部一帯は清水東条湖立杭県立自然公園に属する。加古川に沿って JR加古川線,国道 175号線が通じ,西部を国道 427号線が通る。面積 132.44km2。人口 3万8673(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by