人身売買(読み)ジンシンバイバイ

デジタル大辞泉 「人身売買」の意味・読み・例文・類語

じんしん‐ばいばい【人身売買】

人格を無視して、人間を物品同様に売買すること。奴隷売買はその代表例。

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精選版 日本国語大辞典 「人身売買」の意味・読み・例文・類語

じんしん‐ばいばい【人身売買】

  1. 〘 名詞 〙 人間を物品と同様に扱って、売買すること。奴隷の売買が典型的だが、謝金をうけとって女子を接客業者などにあっせんする行為をさす場合もある。人倫売買
    1. [初出の実例]「人身売買は日本法令の禁ずる処であるのに」(出典:万朝報‐明治三八年(1905)八月九日)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「人身売買」の意味・わかりやすい解説

人身売買
じんしんばいばい

人間を物と同じように売買すること。売られた人間は、買い主に所有され、その利益のために使用されるので、人間としての基本的権利(自由権、幸福追求権など)を奪われ、人間としての尊厳や人格を認められない。このような人身売買は、古代から近代に至るまで、奴隷の売買、前借年季奉公などさまざまな形で、各国において行われたが、現代ではもっとも非人道的行為として禁止されるようになっている。

[山手 茂]

世界の人身売買

古代ギリシア・ローマ時代には、家内奴隷が私有化され、贈与、売買、相続の対象とされていた。さらに鉱山の発掘やオリーブ、ブドウの栽培が盛んになり、それらに従事する労働奴隷の需要が増大するにつれて、奴隷の商品化が進んだ。奴隷の供給源は、征服された民族や戦争の捕虜のほかに、負債を返済できない自由民、納税のため家長に売られた家族や、略取・誘拐された婦女子などであった。

 中世には、イスラム商人アフリカの黒人を奴隷として売るようになり、15世紀後半になると、ポルトガル商人が黒人奴隷をヨーロッパの宮廷に売り込み始めた。欧米の資本主義の原始的蓄積は、黒人奴隷労働を利用することによって強行されたといわれている。アフリカのギニア湾沿岸の一部はかつて奴隷海岸といわれ、アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダなどの奴隷業者は巨利を博した。彼らによってアメリカ市場に売られた黒人奴隷は、300年間に1500万人に上ると推計されている。

 インドや中国などアジア諸国でも、古代から奴隷の売買が行われ、最近に至るまで養子の形をとるなどの方法により人身売買が続けられている。2000年に「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人(特に女性及び児童)の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」(略称「国際組織犯罪防止条約人身取引議定書」)が国連総会で採択され、2003年に発効した。日本では2005年(平成17)に国会で承認、2017年に公布および告示されている。しかし依然として人身売買や性的搾取はなくならず、2012年6月に国際労働機関が発表した「強制労働に関する報告書」によると、世界中で約2100万人が労働を強要されている。そのうち性的搾取は全体の22%を、地域別にはアジア・太平洋地域がもっとも多く全体の56%を占めている。

[山手 茂]

日本の人身売買

日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形で人身売買が行われてきた。古代の奴隷については、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の「生口(せいこう)」や『古事記』『日本書紀』の「奴(ぬ)」の記述によって知ることができる。大化改新の律令(りつりょう)文書に、奴婢(ぬひ)の制度に関する規定があり、当時一人当り稲1000束で奴隷を売買した記録が残っている。この奴婢は、荘園(しょうえん)時代には農奴に転化した。戦乱、飢饉(ききん)、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす人さらいや人買が横行した。また、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質を奴隷化することも生じた。江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、多くの身売り女性による遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

 明治政府は、1870年(明治3)に児童を中国人に売ることを禁止し、1872年に娼妓(しょうぎ)解放令を出すなど、幾度も人身売買に関する禁令を出した。しかし、人身売買的な芸娼妓契約や、養子に仮装した人身売買契約などの形で古い慣行が続けられていた。一方、製糸・紡績業が発達するに伴い、農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ、搾取されるようになった。労働時間は1日十数時間で、牢獄(ろうごく)のような寄宿舎での生活を強制され、逃亡者は残虐なリンチを受けた。過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出した。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年(明治44)に工場法が制定されたが、その効果は容易にはあがらなかった。昭和になっても、不況期には貧困農村で人身売買が行われた。

 日本において人身売買が全面的に廃止されたのは、第二次世界大戦後、民主化政策が推進され、国民のなかに人権意識が浸透してからである。日本国憲法は、個人の尊重(13条)、奴隷的拘束および苦役からの自由(18条)を保障している。北海道のたこ部屋、九州炭鉱地の納屋制度、前借付きの年季奉公など、伝統的な奴隷的拘束制度は、労働関係法制の整備や労働組合運動の発展によって解体された。山形県飛島の南京(ナンキン)小僧、山口県大島(屋代(やしろ)島)の梶子(かじこ)など、もらい子制度に隠れた人身売買も、児童福祉法(昭和22年法律第164号)違反として取り締まられ消滅した。また2005年(平成17)の刑法改正(平成17年法律第66号)により、人身売買罪が新設された。これにより、買い受け、売買、売り渡し、国外移送など、国境をこえた人身売買も含め、人身売買そのものを取り締まることができるようになった。

[山手 茂]

売春と人身売買

しかし、売春に関連する人身売買=奴隷的拘束問題は解決困難であり、さまざまな対策が講じられたにもかかわらず、形態を変えながら今日まで存続している。1946年(昭和21)占領軍は、公娼制度は民主主義に反するとして「日本に於(お)ける公娼廃止に関する覚書」を発したが、日本政府は次官会議によって、私娼取締りを名目として旧遊廓(ゆうかく)と公娼制度を「赤線地帯」に温存する方針を決定した。占領軍は、表面では公娼制度を非難しながら、裏面では占領軍将兵のための売春婦を必要としていた。しかし売春防止法(昭和31年法律第118号)が、1956年5月公布され、1958年4月全面施行されてのち、売春に関係ある人身売買は激減した。だが、2005年(平成17)の人身売買罪新設ののちも、暴力団関連、外国女性関連の人身売買的売春は、後を絶っていない。

[山手 茂]

『前田信二郎著『売春と人身売買の構造』(1958・同文書院)』『牧英正著『近世日本の人身売買の系譜』(1970・創文社)』『牧英正著『人身売買』(岩波新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「人身売買」の意味・わかりやすい解説

人身売買 (じんしんばいばい)

人の全人格ないしは自由を売買の対象とすること。どのような具体的内容が人身売買として問題になったかは,時代や地域によって差異があった。古くは子その他を文字どおり売買して奴隷的身分とすることを意味したし,今日では雇用契約において,被用者が主体的地位にあるか,前借などによりはなはだしく自由を拘束された状態にないか,などが人身売買と称せられる問題となっている。また,人身売買の禁止も古来行われてきたが,禁止の内容や理由もさまざまであり,人権尊重の原理にもとづく規制は近代以降のことである。
奴隷 →奴隷貿易
 日本における人身売買に関する最も古い史料は,676年(天武5)に下野国司が凶年のため百姓が子を売ることの許可を求めたが,朝廷はこれを許さなかったとの《日本書紀》の記事である。とくに許可を求めたのは,すでに売子の禁制があったことを示す。隋・唐の律令を継受して人身売買に関する法制は整備した。大宝・養老の律令は,賤民のうち奴婢の売買のみを,本部の官司に経(ふ)れ保証をとり立券して値を付すという手続により,認めた。正倉院には所定の手続を経た売買文書が伝存している。奴婢以外の売買は,売られる者の合意の有無にかかわらず,禁止した。規定の内容は,ほぼ唐制にならったが,唐律では売子の罪を闘殴殺する罪と同等にしたが,日本律は親が子を闘殴殺する刑は唐律と同等としたのに,子孫を売る罪は一等を軽くしている。律令制における奴婢以外の売買の禁止は身分の混乱を防止することにあり,奴婢の売買を公券によらせたのは課税や班田のための籍帳の除付のためであった。

 平安時代末になると,人を勾引して辺境に売る人商人(ひとあきびと)(人買)が横行した。朝廷はその禁制をしばしば発し,鎌倉幕府はこれをうけて人商人の禁制をくりかえした。鎌倉幕府は,1231年(寛喜3)の大飢饉のあと一時人身売買を黙許したが,不安がおさまるとともに禁制にもどる。幕府は〈人倫売買〉の語を用いるが,主たるねらいは人商人の禁止にあり,90年(正応3)には人商人の面に火印をおし,1303年(嘉元1)には盗賊に準じて断罪すると定めた。鎌倉から室町時代にかけての文学等には人商が主題となるものが多い。辺境地域ではその経営方式から労働力の需要が強く,また都の優雅な小者は珍重されたのである。戦国時代の,伊達氏の《塵芥集》,《相良氏法度》《結城家新法度》などの分国法典は人売買に関する個条を設けているが,一概に禁止をしたわけではない。

 1587年(天正15)島津氏の討伐に九州に下った豊臣秀吉は,多くの日本人がポルトガル商人に売られている事情を知った。実際,当時世界の各地に売られた日本人奴隷が散在したようである。秀吉はポルトガル商人の日本人奴隷貿易について詰問し,同年,日本人を大唐,南蛮,高麗に売ることを禁止し,あわせて日本国内における人の売買禁止をふくむ御朱印状を出した。イエズス会は,日本で得た成果を失うことをおそれ,96年(慶長1)に日本人の購入を禁じ違反者に対する破門規定を設けた。秀吉はその後支配の拡大とともに戦乱で離散した農民の還住と売買された者の返付を命じ,1588年すなわち刀狩令を出した年以降の人売買を無効としている。

 江戸幕府は当初から人の永代売買を禁止し,年季を制限した。これは奴隷的身分の発生を否定する体制に由来する。年季とは,年季売,質置,本銭返等をふくめての期間であるが,当初しばらくは3年,後には10年とされ,1698年(元禄11)には制限が外される。年季売や質置は,江戸中期には年季奉公となる。貨幣経済の浸透とあいまって,年季奉公は漸次純粋な労働力の提供を目的とするものと徒弟奉公の2種におちつく。

 ところが遊女,芸者等の年季奉公にはかつての人身売買の実質をとどめ,娘をこの種の奉公に出すことを〈娘を売る〉と称した。遊女等の奉公人請状には,高額の前借金,身請の承諾,蔵替等の特有の文言が記載された。人身売買と同じ目的で,養子とくに一生不通養子もさかんに行われた。これは抱主(かかえぬし)が遊女,芸者等に対する人的支配を完全にする方法であり,親元へは養育料などの名目で対価が支払われた。

 1872年(明治5),ペルーの清国人奴隷貿易船マリア・ルース号が横浜に入港したことに端を発する裁判で,ペルー船の弁護人は,日本ではより過酷な契約が行われているとして娼婦の契約書を法廷に出した(マリア・ルース号事件)。諸外国注視のなかで,日本では国家が人身売買を公認していると指摘されたことは,不平等条約の改正を企図している政府には痛恨事であった。政府は〈皇国人民ノ大恥コレニ過ギズ〉として,直ちに人身売買の禁止と芸娼妓解放を含む太政官布告第295号を出した。司法省は〈娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ〉として前借金等の棒引きを命じたので,世人これを〈牛馬きりほどき〉と称した。しかし政府には遊郭を廃止する意思はなく,遊女屋は貸座敷業者と名を変え,自由な娼妓に座敷を貸す形式がとられた。往年の身代金の実質は残り,娼妓に対する人身拘束は依然として変わらなかった。

 第2次世界大戦後,日本国憲法の施行を機会に人権尊重の意識がたかまり,地方的慣行として行われていた名子(なご)制度,南京(ナンキン)小僧,桂庵(けいあん)小僧,梶子(かじこ)などが人身売買問題としてとりあげられた。内閣の中央青少年問題協議会は〈いわゆる人身売買〉を〈児童をして,その福祉に反するような労務,または不当な人身の拘束を伴う労務を提供させ,その対価として金銭・財物その他を給付することを内容とする契約・またはこれをあっせんする行為〉と定義しこれに対処した。1955年,これまでの判例と異なり,消費貸借名義の前借金と酌婦としての稼働契約は不可分の関係にあるとして最高裁判所はいわゆる前借金無効の判決をした。翌年売春防止法が成立,58年施行され,日本の公娼制度は終止符をうち,ひいては人身売買の温床は消滅した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「人身売買」の意味・わかりやすい解説

人身売買
じんしんばいばい
human trafficking

労働や性的搾取,あるいは第三者にとって金銭的利益となる行為を目的として,強制的手段または甘言により,非合法な手段で人を別の国や場所に移動させること。人身取引ともいう。国際連合は,性的搾取,強制労働,臓器摘出の三つに分類し,暴力詐欺強制によって人に売春させたり,労働や臓器摘出のために人を獲得,蔵匿,移送などしたりすることと定義している。
人身売買の多くは,東南アジアや東ヨーロッパ,サハラ以南のアフリカなどの国々で,勧誘者(リクルーター)がインターネットや職業斡旋所,メディア,地元のつてなどさまざまな媒体を通じて標的となる人を探すことから始まる。被害者の出身国で勧誘する人は,被害者と共通の文化的背景をもつ人物であることが多い。被害者は誘拐されたり強制されたりする場合もあるが,虚偽の雇用機会や偽造旅券査証などに誘惑されることが多い。被害者を移動させる人は,目的地の国にいる責任者に引き渡したときに初めて報酬を受け取る。人身売買の背景には,宗教的迫害や政治的紛争,雇用機会の欠如,貧困,戦争,自然災害などによる悪環境が存在する。さらに,発展途上国グローバル化が進んだことで,違法移民の輸送市場が形成され,犯罪組織のネットワークが拡大し,移民の輸送を促進する国境を越えたルートが確立されてきたことも人身売買増加の一因とされている。
人身売買にもさまざまな種類があるが,奴隷状態にいたる最も一般的な形態は,国際的な性産業で働かせることを目的とした移送である。性奴隷の被害者には男女両性および子供も含まれており,人身売買全体の 58%を占めると推定される。性的奴隷には強制売春やポルノ出演を強いられ,小児性愛犯罪組織に送られたり,ヌードダンサーやヌードモデルといった性関連の職業につかされたりするなどの事例がある。児童の人身売買では,きわめて危険な労働環境で長時間労働を強いられ,ほとんどまたはまったく賃金も支給されない場合が多い。ストリートチルドレンとなったあげくに,売春や窃盗,物乞い,麻薬取引などに利用されることもある。また,少年兵として売買され,幼くして戦闘を経験する場合もある。
人身売買活動を抑制するため,世界中で多くの政府機関が積極的な取り組みを行なっている。2000年に国連で採択された「人(特に女性および児童)の取引を防止し,抑止しおよび処罰するための議定書」は,人身売買の定義を提示するとともに,人身売買と闘い,被害者を支援し,締約国間の協調と協力を促進するための法制度を整備するよう各国に呼びかけている。また国連薬物犯罪事務所 UNODCは,「人身取引に対するグローバルプログラム GPAT」を運営し,人身売買の監視と対策を実施する。国際刑事警察機構 INTERPOLは,各国の司法機関を支援し,人身売買に対する認識を高める活動を行なう。このほか人身売買抑止に関与する国際機関には,国際労働機関 ILOや国際移住機関 IOMなどがある。日本では,刑法が日本国外に移送する目的をもって人を売買する行為を罰している(刑法226条2項前段)。たとえ本人や親の承諾があっても本罪は成立する。そのほか刑法は淫行勧誘罪(182条)を設けて,人身売買の前段階にあたる行為を禁じている。また刑法のほか,職業安定法 63条,児童福祉法 34条などにより人身売買禁止の実効を企図している。

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百科事典マイペディア 「人身売買」の意味・わかりやすい解説

人身売買【じんしんばいばい】

人間を商品として売買すること。奴隷など社会的被差別者や窮乏婦女子,孤児などが多く犠牲になり強制労働や強制売春などで酷使される。前借金や年季奉公あるいは養子縁組の形による芸・娼妓(しようぎ)契約も人身売買の実質をもつ事例が多い。西アフリカの奴隷貿易やアメリカ南部の奴隷売買は史上有名。日本では律令時代から多くの禁令があるが,私奴婢(ぬひ)の売買や凶作時の特例,年季売りを認めるなどし,婦女の場合は娼妓の存在と表裏をなしてきた。また昭和恐慌時の東北農村の娘身売りは著しい例である。従来,人身売買の実質をもつ契約は公序良俗に反するとして無効とし(民法90条),対外人身売買を2年以上の有期刑(刑法226条)としてきたが,海外からの人身売買を規制する条項を欠いていたため,2005年の刑法改正により人身売買罪を新設(226条の2など),〈人を買い受けた者〉を3ヵ月以上5年(被害者が未成年なら7年)以下の懲役,〈売り渡した者〉を1年以上10年以下の懲役などと規定した。また〈婦人及児童の売買禁止に関する条約〉〈醜業を行なわしむる為の婦女売買禁止に関する条約〉(ともに1925年),〈人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約〉(1958年),国際組織犯罪防止国連条約(2000年)に付属する〈人身取引議定書〉などがある。→娼妓解放令売春防止法
→関連項目人質

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「人身売買」の解説

人身売買
じんしんばいばい

人間を売買する行為。それを業とするのが人買(ひとかい)。下人(げにん)身分を除くと,一般的には律令法・武家法ともに建前として非合法である。鎌倉時代の寛喜の飢饉では一時的に黙認されたが,あくまで非常時の例外的措置である。しかし,実際には平安末期から勾引(かどわかし)による人身売買が朝廷や幕府の禁止令にもかかわらず横行していた。この背景には「さんせう太夫」にみられるように,労働力供給に対する需要の存在があった。近世には労働力市場の成立と幕府の永代売買禁止によって,中期以降に年季奉公の名のもとで人身売買が行われた。この契約には本銭返奉公契約・質物契約・居消(いげし)質奉公契約などがあった。居消質奉公契約の典型が芸者・遊女・飯盛女といった年切奉公で,身売と称された。近代になると,マリア・ルス号事件を契機に日本の公娼制度が問題となり,芸娼妓解放令が布告されたが実効がともなわなかった。人身売買の消滅は,第2次大戦後の日本国憲法施行による基本的人権への意識の高まりと児童福祉法・売春防止法などの立法をまたねばならなかった。

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世界大百科事典(旧版)内の人身売買の言及

【中世社会】より

…こうしたとき,平民はみずからの自由の放棄を明らかにした曳文(引文),いましめ状を書いたのである。公家,武家はともに人身売買を禁じていたが,寛喜の飢饉のさい,幕府が一時的にせよそれを認めたことから,餓死の危険,飢饉を理由に,やむをえぬこととして人身の売買を公然と行うのがふつうになり,こうした広範な下人の存在が中世社会のあり方の一面を規定していたことはまちがいない。 もとより下人の境遇は,《山椒大夫》の安寿・厨子王の運命に象徴されるように過酷なものがあったが,一方には捨子や身寄りのないものを養い保護する慣習もあり,下人の実態は,永続的ではないとしても家族をもち,主から給与された田畠を耕作するなど,平民とさほど異ならないところもあったのである。…

【人買】より

…人身売買を業とする者,人商人(ひとあきびと)。朝廷は,1178年(治承2)以降,人を勾引して売る者が京畿に充満すると述べ,その拘禁をくりかえし諸国に命じたが,鎌倉幕府も97年(建久8)以降朝廷法をうけて人売買の禁止をくりかえした。…

【人質】より

… 中世社会において,この種の人質より一般に行われたものに,債権の担保としての人質がある。この人身の質入れ証文は,人身売買が盛んであった東国・九州地方などにとくに多く残っており,この人質は,この地方の戦国大名の徳政令の対象にもなっている。質入れの対象としては,債務者の子女または奴婢が多く,質の種類としては,占有質である入質(いれじち)と抵当である見質(みじち)があったが,いずれも質流れとなると人質は,債務奴隷として債権者の下人となった。…

【奉公人】より

…自給的穀作農業を営む主家の農業経営は,譜代下人の労働と,自立過程にある小農(被官,家持下人,隠居など)の提供する賦役(ふえき)とによって支えられていた。譜代下人の成因には,中世以来の主家への隷属を継承したものと,人身売買の結果として発生したものとがある。近世の法制では終身の身売りを禁止していたが,農業生産力の水準の低さに規定されて,土地が売買・質入れの物件たりえないほどの不安定な農業を基盤にして,17世紀前半期には事実上の人身売買がひろく農村で行われていた。…

※「人身売買」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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