田間村(読み)たまむら

日本歴史地名大系 「田間村」の解説

田間村
たまむら

[現在地名]東金市田間

東金町(辺田方村)の北東に位置し、東金御成とうがねおなり街道が通り、当村から小松こまつ(現成東町)道面どうめんまで御成新道が分岐する。享徳二六年(文明九年、一四七七)の報国寺寺領目録写(相州文書)山辺やまべ保内田馬たま郷は「報国寺領当乱来不知行」とあるが、これは当地のことと思われる。永正(一五〇四―二一)頃東金酒井氏により田間城が築かれ、田間神社の北側に空堀・土塁などの遺構が残る。東金酒井家臣の遠山・鈴木・沢田・田辺各氏が当地に土着したという(「東金城明細記」など)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千九〇四石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では田間組に属し、高一千七〇〇石、下野烏山藩領。


田間村
たまむら

[現在地名]結城市田間

上成うえなし村の南に位置し、村の中央を日光東街道が縦断。西方を南流する川沿いの台地西縁部には田間権現たまごんげん遺跡があり、縄文早期・弥生後期の土器片や土師器片などが採集された。近くの三蔵神社館跡さんぞうじんじやかんせきは標高約三〇メートルで、館跡内北東隅の三蔵神社の所が最も高く三三・三メートル。周囲が土塁で囲まれていたが、南西の角の部分の土塁が一部崩された。規模は中軸線で東西一一三・八メートル、南北一六八・八メートルほど、三蔵神社の前からは長い参道が南に延びており、その西側の低地部分には池がある。


田間村
たまむら

[現在地名]小山市田間

塚崎つかざき村の東に位置し、東を西仁連にしにづれ川が南流する。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に下郷分として「たんま」とみえ、伊勢役銭二貫二〇〇文を負担している。同二三年一二月二四日の足利義氏充行状(野田家文書)に小山領一一郷のうち「多摩」とあり、野田左衛門大夫に宛行われている。


田間村
たまむら

[現在地名]度会町田間

宮川中流右岸の低位段丘上にある。東は上久具かみくぐ村と緩やかな丘陵で連なる。南はふじ河内かわち山地が緩やかに傾斜する。西は宮川の田間たま崖とよばれる断崖で、大久保おおくぼドロと対する。北は宮川が湾流する。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)の「散在寺領等証文紛失分」の古利寺領として内城田うちきだ郷内に「一、南迫壱所一名田摩」を記し、この四至は「東限鳥居尾 西限尾奈瀬 南限横峯 北限大河」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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