朝日日本歴史人物事典 「畠山太助」の解説
畠山太助
生年:文化13(1816)
嘉永6(1853)年陸奥国盛岡藩(岩手県)百姓一揆の発頭人筆頭。野田通田野畑村肝入の分家に生まれ,畑仕事,山仕事,炭焼き,塩焚きなどの暮らしを送った。38歳のとき一揆の発頭人となり,「小○」(困る)の旗を考案,仙台領に逃散して願書を提出,南部藩の要求承認,処罰者なしの約束をとるまで代表45人で居残った。仲間が動揺すると「衆民の為に死ぬるは元より覚悟の事」と励ました。明治6(1873)年,地租改正に抵抗する運動の指導者と疑われ,拷問を受け,取り調べに使われた宿屋で自殺した。宿の主が「佐倉惣五郎のようだ」と讃えて自家の墓域に葬った。<参考文献>深谷克己『南部百姓命助の生涯』
(深谷克己)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報