デジタル大辞泉
「白川義則」の意味・読み・例文・類語
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しらかわ‐よしのり【白川義則】
- 陸軍大将。男爵。伊予(愛媛県)出身。関東軍司令官、陸相、軍事参議官などを歴任。中国通として知られる。昭和七年(一九三二)の上海事変に上海派遣軍司令官として出征、強硬派に反対し停戦を実現させたが同地で爆弾を投げられて負傷、一か月後没。明治元~昭和七年(一八六八‐一九三二)
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白川 義則
シラカワ ヨシノリ
- 肩書
- 陸相
- 生年月日
- 明治1年12月12日
- 出生地
- 伊予国松山(愛媛県)
- 学歴
- 陸士(旧1期)〔明治23年〕卒 陸大〔明治31年〕卒
- 経歴
- 明治24年少尉、陸大在学中に日清戦争従軍。31年近衛師団参謀、ドイツ留学後、陸士教官となる。日露戦争には歩兵第21連隊大隊長として従軍。大正2年以後、中支派遣軍司令官、歩兵第9旅団長、陸軍省人事局長、陸士校長、第1・11師団長、陸軍航空本部長、関東軍司令官を歴任。この間、大正14年陸軍大将。昭和2年田中義一内閣の陸相、4年軍事参議官、7年上海派遣軍司令官。上海事変停戦後の同年4月29日、天長節記念式場で朝鮮人民族主義者尹奉吉が投げた爆弾で重傷を負い、5月死去した。男爵。
- 没年月日
- 昭和7年5月26日
- 家族
- 妹=船田 ミサヲ(女子教育者)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
白川 義則
シラカワ ヨシノリ
明治〜昭和期の陸軍大将,男爵 陸相。
- 生年
- 明治1年12月12日(1869年)
- 没年
- 昭和7(1932)年5月26日
- 出生地
- 伊予国松山(愛媛県)
- 学歴〔年〕
- 陸士(旧1期)〔明治23年〕卒,陸大〔明治31年〕卒
- 経歴
- 明治24年少尉、陸大在学中に日清戦争従軍。31年近衛師団参謀、ドイツ留学後、陸士教官となる。日露戦争には歩兵第21連隊大隊長として従軍。大正2年以後、中支派遣軍司令官、歩兵第9旅団長、陸軍省人事局長、陸士校長、第1・11師団長、陸軍航空本部長、関東軍司令官を歴任。この間、大正14年陸軍大将。昭和2年田中義一内閣の陸相、4年軍事参議官、7年上海派遣軍司令官。上海事変停戦後の同年4月29日、天長節記念式場で朝鮮人民族主義者尹奉吉が投げた爆弾で重傷を負い、5月死去した。男爵。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
白川義則 しらかわ-よしのり
1869*-1932 明治-昭和時代前期の軍人。
明治元年12月12日生まれ。陸軍次官,関東軍司令官などをつとめ,大正14年大将。昭和2年田中義一内閣の陸相となるが,張作霖(ちょう-さくりん)爆殺事件を指揮した河本大作大佐を処罰できず,内閣は総辞職。7年上海派遣軍司令官として出征中爆弾テロにあい,5月26日死去。65歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。陸軍大学校卒。
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白川 義則 (しらかわ よしのり)
生年月日:1869年12月12日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。陸軍大将;男爵
1932年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の白川義則の言及
【早稲田軍教事件】より
…早稲田大学軍事研究団事件ともいう。第1次世界大戦後,総力戦体制を構想した軍部は教育機関にも足場を築こうと企図していたが,軍部と接触のあった早大教授青柳篤恒は乗馬学生団を母体に軍事研究団を組織するため,1923年5月10日,陸軍次官白川義則ら陸軍幹部を招いて発会式を行った。文化同盟,建設者同盟,雄弁会はこれに抗議し,12日に雄弁会主催で軍事研究反対学生大会を開き,約5000の学生が結集して〈我等は軍国主義に反対し,早稲田を軍閥宣伝の具たらしむることに反対す〉との決議を採択した。…
※「白川義則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」