中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽(しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。1920年安徽(あんき)派・直隷(ちょくれい)派の争いに介入し、北京(ペキン)政界に進出。1924年、第二次奉直戦争に大勝すると、彼の勢力は大幅に伸長し、その支配領域は華北、華東を経て遠く江蘇(こうそ)にまで及んだ。その後、軍閥孫伝芳(そんでんほう)、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反発、および部下の郭松齢(かくしょうれい)の反乱があり、一時、東北に戻った。1926年、呉佩孚(ごはいふ)と結んで馮玉祥を追い安国軍総司令と称した。1927年4月、北京のソビエト大使館を捜索、そこにいた李大釗(りたいしょう)らの中国共産党員を殺害した。同年6月、陸海軍大元帥を称し、北京政府を掌握した。1928年、国民党の北伐軍の進撃を受け、やむなく東北への撤退を決意し、6月、座乗列車が奉天郊外の皇姑屯(こうことん)付近で日本の関東軍により爆破され死んだ。
張作霖は日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。しかし、彼が東北の枠を越えて全国的な規模の軍閥に成長すると、アメリカなどとのつながりが生まれ、かならずしも日本のいうことに従わなくなったのが、殺されたおもな理由であろう。
[倉橋正直]
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近代中国の軍人。奉天(今の遼寧)省海城県出身。字は雨亭。貧農の家に生まれたが,父親ゆずりのばくち好きで正業につかず,やがて〈緑林〉(土匪)に投じて頭角を現した。日露戦争に際しては,機を見て日露双方のスパイをつとめたといわれる。巧みな処世術と投機の才を武器に,辛亥革命前後の動乱に乗じて身をおこし,一代で奉天軍閥を築き上げた張は,13年間にわたって中国東北地方に君臨したのみでなく,関内をもうかがって軍閥戦争(第1,第2奉直戦争)を繰り返した。彼の背後には,日本の関東軍が控えており,両者はときに反発しあいながらも,概して相互利用の関係にあった。彼はまた,国内の革命勢力に対抗する封建軍閥派最後のエースでもあり,1926年末,安国軍総司令に任じて〈反共討赤〉を宣言,翌年には李大釗(りたいしよう)ら共産党人20余名を逮捕殺害した。さらに同年,張は北京に安国軍政府を作り,陸海軍大元帥を称したが,翌28年には蔣介石の第2次北伐軍に敗れ,奉天に逃れようとして関東軍に爆殺された。
→張学良
執筆者:藤本 博生
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1875~1928
中国の軍閥。奉天(遼寧)省海城県の人。馬賊の出身。1903年帰順して勇軍の隊長となり,辛亥(しんがい)革命で奉天市内を警備し師長に進み,実業を兼営した。16年奉天督軍兼省会となり,多数の日本軍事顧問を側近にめぐらし,日本に利用されつつ日本を利用しようとした。18年華北に南征して兵力を倍増し,20年以後,事実上の満洲王となった。たびたび関内に出兵し,内モンゴルをあわせ,最盛時の25年には兵力36万,上海まで押えた。翌年討共の名で関内に入り,27年北京で大元帥に就任。28年国民革命軍に敗れ,関内引揚げの途中,6月4日奉天で関東軍に列車を爆破され死んだ。
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1875~1928.6.4
中国の民国初期の奉天派軍閥。字は雨亭(うてい)。遼寧省出身。日清戦争に従軍したのち馬賊に身を投じた時期もある。辛亥(しんがい)革命時は奉天国民保安会軍事部副部長。袁世凱(えんせいがい)が大総統に就任後,張は奉天27師長に昇進,袁の死後奉天督軍兼省長に就任。1918年三省巡閲使となり,奉天軍閥を形成。親日的態度を示す一方,日本の対華二十一カ条の要求に反対の立場も鮮明にした。22年第1次奉直戦争に敗れ関外に退いたが,24年の第2次奉直戦争後,北京政権を掌握。日本は張の中央進出に反対したが,張は中華民国陸軍大元帥を自称。28年北伐軍に敗れた張は関外へ引き揚げる途中,奉天郊外の皇姑屯(こうことん)で関東軍に爆殺された。
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…ここに南北対立の局面が出現し,以後この分裂の構図は北伐の完成まで約10年間あまりつづくことになる。 この状況に直面して段祺瑞は北洋派をあげての武力統一を図ったが,その結果,同派の内部矛盾が急激に顕在化し,段祺瑞の安徽派,馮国璋(ふうこくしよう)の直隷派,張作霖の奉天派等々が入り乱れて中央政権の争奪戦を演じ合うことになる。段祺瑞のひきいる安徽派は20年7月の安直戦争に敗れて政権を失い,直隷派とその同盟軍奉天派が政権の座についた。…
…直奉の連合もすぐ破れ,22年春には第1次奉直戦争が勃発,直隷派が勝利を収めた。しかし直隷派も,日本の後押しをうけた張作霖の奉天軍との24年秋の第2次奉直戦争において,自軍内部の馮玉祥の裏切りで敗れた。張馮の連合もすぐ破れ,26年春,形勢不利を悟った馮玉祥の国民軍が北京を退出するにおよび中央政府は張作霖の手中に帰した。…
※「張作霖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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