百済王明信(読み)くだらのこにきし・めいしん

朝日日本歴史人物事典 「百済王明信」の解説

百済王明信

没年:弘仁6.10.15(815.11.19)
生年:生年不詳
平安前期の女官で南家藤原継縄の妻。天平宝字5(761)年乙叡を生む。順調に昇進し,桓武天皇の渡来系氏族優遇策のなか延暦2(783)年10月河内国交野へ天皇が遊猟した際,供奉した一族と共に叙位された。6年8月には山背国高椅津への行幸への帰り,継縄邸で従三位を授けられた。14年4月曲宴に天皇が古歌を誦詠し,尚侍明信に和ることを求めたが,明信が和せずにいると,天皇が自ら和したという逸話を残している。15年,継縄は没したが,天皇の明信に対する厚遇は変わらず,16年に能登国の没官田野77町を賜り,18年正三位に上った。大同3(808)年の乙叡の薨伝には,母明信に桓武の寵が厚く,乙叡の出世は父母威光であったという。明信を桓武の后妃に準ずるのが通説であるが,年齢・経歴からみて桓武の寵は忠節を尽くした臣下夫婦に対するものとみなすべきであろう。死去時,散事従二位。<参考文献>今井啓一「天子後宮における百済王氏女人」(『百済王敬福』),林睦朗『長岡京の謎』

(梅村恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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