イコノクラスム(読み)いこのくらすむ(英語表記)Iconoclasm

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イコノクラスム」の意味・わかりやすい解説

イコノクラスム
いこのくらすむ
Iconoclasm

聖像破壊運動。イコン崇敬の是非をめぐって、8~9世紀のビザンティン帝国で繰り広げられた社会運動。イサウリア朝の皇帝レオン3世は、かねてイコン崇敬の行き過ぎを憂えていたが、一部の教会関係者の進言もあって、726年、宮殿の門から大イコンの撤去を命じた。これがイコノクラスム発端で、その底流には、画像表現に対しヘレニズム的寛容さを持ち合わせない小アジア、アルメニア地方の反ヘレニズム感情があった。そして小アジア出身者の多かった軍隊が、この運動の推進者となった。それまで聖像とされていたものを一転して偶像扱いすることには抵抗も強く、ギリシアシチリア、南イタリアなどでは反乱も起こった。レオン3世は730年の勅令でイコノクラスムを徹底させ、コンスタンティノープル総主教をイコン破壊派に切り換えた。それを批判したローマ教会に対しては、帝国西部におけるローマ教皇の管轄権を取り上げた。これは東西両教会分離の遠因となった。

 レオン3世を継いだ息子のコンスタンティノス5世は、754年のヒエリア主教会議でイコノクラスムに神学的根拠を与え、762年よりイコン擁護派、とくに修道士に対する迫害を始めた。その意味でイコノクラスムは、肥大化した修道院勢力に対する闘争様相をみせた。ただ、イコン破壊が徹底して行われたのは、首都コンスタンティノープルと小アジアを中心とする帝国の東部で、ギリシア、シチリア、エーゲ海諸島、南イタリアなどでは徹底せず、とくに南イタリアはイコン擁護派の避難所となった。イスラム・カリフ王朝支配下のエジプトシリアでは、イコノクラスムは行われなかった。

 皇帝レオン4世の没後、皇妃イレーネが787年ニカイアで第7回公会議を開催し、イコン崇敬を公式に宣言し、第1期のイコノクラスムは終結した。しかし、帝国の政治情勢は混乱を続け、813年に登位したレオン5世は、軍隊の意向を無視できず、ふたたびイコノクラスムが始まった。しかし第2期は長続きせず、首都のストゥディオス修道院を中心とする修道院側の抵抗も強かった。そして皇帝テオフィロスの没後、皇妃テオドラが843年に開いた主教会議で、イコン崇敬の復活が公式に宣言された。イコノクラスムは、信仰の問題が皇帝主導の社会運動になった点が特徴で、政治的には皇帝権と教権の関係が問題となり、教義のうえではイコン崇敬が確立された。

森安達也

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イコノクラスム」の意味・わかりやすい解説

イコノクラスム
Iconoclasm

聖像破壊運動。ギリシア語のエイコン (聖像) とクラオー (破壊する) に由来する。宗教のうちのあるものは,たとえば「神」のような信仰の対象が,あらゆる人間的認識能力を超えた絶対的超越であることを強調する。そのため,神が感覚的認識の対象となるような画像によって表現されることはありえず,またあえてこれを行うことは涜神的行為であるとする。このような考えから自他の宗教,宗派における聖像の破壊,禁止に出ることがしばしばある。ユダヤ教ではこの傾向が強く (旧約聖書『出エジプト記』におけるモーセの十戒の第二戒,あるいは「金の犢」の破壊の物語など) ,イスラムにおいても同様である。仏教,キリスト教は聖像を用いるが,初期仏教芸術のなかには明らかに釈迦を人間像として表わすことを拒否する伝統があった。キリスト教のなかにも聖像忌避の伝統は強く,726~864年のビザンチン帝国におけるイコノクラスムは政治,文化両面に重大な結果をもたらした (→聖画像論争 ) 。 1566年のオランダにおけるカルバン派信徒のカトリック聖像破壊と同様であるが,フランス革命の際のイコノクラスムは啓蒙主義に基づいて迷信打破を唱えた急進的合理主義によって行われた。

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