百目木村(読み)どうめきむら

日本歴史地名大系 「百目木村」の解説

百目木村
どうめきむら

[現在地名]岩代町百目木

東新殿ひがしにいどの村の東、口太くちぶと川の上流部にあり、東は田沢たざわ村、北と西は南戸沢みなみとさわ(現東和町)、南は茂原もばら村などと接する。最高所は北端にある(八九七・一メートル)。中心集落は口太川の埋積小盆地にある字まちである。戦国末期、石川弾正の居城百目木城があったため、搦手からめて矢来やらいなどの地名があったが、現在は搦手のみ小字名として残る。天正一六年(一五八八)五月二二日の伊達政宗書状(伊達家文書)に「百目木之地」とみえる。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に百目木とみえ、高九九六石余。寛永一三年(一六三六)の加藤家安達郡所納村々高目録(松藩捜古)には御倉入として百目木村七一八石余・茂原村二七七石余とあり、両村の合計高が文禄三年の百目木村高と一致する。

百目木村
どめきむら

[現在地名]仁賀保町樋目野ひめの 百目木

白雪しらゆき川中流の低地にあり、東は立井地たていち村、南はくち村、北は黒川くろかわ(現金浦町)、西は金浦このうら(現金浦町)に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地(由利郡中世史考)に仁賀保郷の一村として村名がある。支配の変遷芹田せりた村と同じで、寛永一七年(一六四〇)以降本荘藩六郷氏領となる。

元和九年(一六二三)の高は一一三石五斗(「仁賀保総高改」渡辺文書)、寛永九年には「百々目木村」とあり一一三石四斗六升五合、この取米五九石七斗一升二合一勺(仁賀保兵庫知行納方帳)

百目木村
どうめきむら

[現在地名]袖ケ浦市百目木・百目木飛地どうめきとびち

三箇さんが村の南西小櫃おびつ川右岸に位置し、久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に百目村とみえ、高一千二四四石。正保国絵図に百目木とある。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に百米木村とあり、久留里藩領。貞享元年(一六八四)には上野前橋藩領(酒井忠挙領目録)、延享三年(一七四六)には久留里藩領で(「久留里藩領知目録」久留里藩制一班)、以後幕末まで変化はない(天保一一年望陀郡戸口録など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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