戦国期から史料上にみえる地名。戦国期は
天文六年(一五三七)六月六日に心盛斎全方(武田信助か)が逸見山城入道(祥仙)に出した書状(「快元僧都記」同月七日条)に「久留里」とみえ、久留里で起きた問題の結果を逸見に問合せている。武田信助は真里谷武田氏の一族で、逸見祥仙は小弓公方足利義明の老臣であるから、この頃久留里は小弓公方の勢力圏内にあったと推測される。翌七年の第一次国府台合戦の結果、久留里は里見義尭によって掌握され、やがて里見氏の上総経営の拠点となり、義尭自身もここに居住したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…箕輪(みのわ)に法隆寺式伽藍配置の九十九坊廃寺があり,奈良時代の郡寺といわれる。内陸部の久留里(くるり)には中世に真里谷武田氏,里見氏が拠った久留里城がある。近世に久留里藩が成立して大須賀,土屋,黒田各氏が城主となり,城下町が形成され,月2回の定期市も開かれた。…
※「久留里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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